リュージュ(龍樹)の伝言

第2回:Ian R. McWhinney先生

2012/11/17

 「自分の考えはどうしてもギリシャ・ローマ(Greco-Roman)の影響を除けない。リュウキの考えがインド・中国(Indo-China)に影響されているようにね」 ―時々、Ianはこう言ってほほ笑んだ。

 

 1968年に英国からカナダへ移って、カナダの大学に最初の家庭医療学講座を開設したIan R. McWhinney先生が、2012年9月28日、ご家族に見守られながら安らかに息を引き取られた。85歳だった。数日後、英国スコットランドのグラスゴーにいた私の元に彼の訃報が届いた。冷たい雨が降るホテルの部屋で、私は言葉を失った。しばらくして深い悲しみ、懐かしい思い出、そしてあつい感謝の気持ちが訪れ、それらの奔流に私は漂っていた。

 

 グラスゴーにいたのは、英国家庭医学会(RCGP)の年次学術大会(Annual Primary Care Conference)のplenary speakerとして招待されて、大災害後の福島におけるプライマリ・ケアについて講演するためだった。世界の家庭医療の学会で最も伝統と実績のあるRCGPから学会創設60周年の節目にメインの講師として招待されることは、家庭医療を専門とする者(特に外国人の)にとって最大級の名誉であろう。でも、(親しみを込めてまたファースト・ネームで呼ぶことにするが)Ianの著書に出会い、そしてIan本人から直接薫陶を受けることがなければ、今日の私は存在しない。

 

 彼と彼の著書から学んだおかげで、家庭医療がそれ自体でひとつの独立した知識の体系を持つ専門分野であること、「患者中心の医療」がお題目や机上の空論ではなくて実践と研究に支えられた臨床医学の方法であること、そして、家庭医をめざすことが一生を賭ける価値のあるキャリアパスであることを、自信を持って若い人たちに伝えることができた。教育の持つ力の大きさを身を持って感じている。

 

 カナダの研修医になるための試験(MCCEE)を受けにバンクーバーへ行って、ブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)の書店でIanの著書「A Textbook of Family Medicine」の初版(1989)に出会った時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。当時この本を読まずにカナダで家庭医療専門医になることは考えられないほどスタンダードなテキストであり世界的にも名著と評されていた本だったが、日本で目にしたことはなかった。将来自分が目指そうとしている家庭医療が、こんなにも深い臨床医学の原理と実践からの知恵をしっかり基盤に持っていることに半ば圧倒される思いだった。

 

 幸いにも、地域基盤型家庭医療研修プログラムで有名だったUBCのレジデントになることができ、さらに幸せなことに、シニアレジデントになった年に選択研修としてオンタリオ州ロンドンにあるウェスタン・オンタリオ大学(UWO)へ行ってIanのもとで家庭医療の原理について学ぶ機会を得た。今から20年前のことだ。毎日彼とマンツーマンで彼の著書を読んでディスカッションしながら過ごした1か月は、間違いなく私の人生のハイライトのひとつと言ってよい。―ここで冒頭の言葉に戻るのだが、Ianとの問答は知的刺激に満ちていて、なおかつ穏やかで優しかった。

 

 彼の著書の最新版は、Ianの後継者であるUWO家庭医療学講座主任のThomas Freeman教授が共著者となって2009年に「Textbook of Family Medicine(第三版)」として出版された。Ianの死によって、これが彼の遺作になってしまったが、これからも家庭医療を学ぶ者に色褪せることない深い知恵と思索の源を与え続けるに違いない。

 

 家庭医療後進国という事情と、Ianの言葉使いが私よりも数段洗練されているために時間がかかりすぎてしまったが、ようやくこの翻訳が北海道家庭医療学センターの草場鉄周先生の協力を得て出版されることになった。IanとTom、私と草場君、それぞれ後継者との2世代にわたる仕事になった。Ianの深い考えを日本語で読んでもらえる日がやって来ることは、私の大いなる喜びだ。

 



リュージュ(龍樹)の伝言
カテゴリ
見学・実習希望
勉強会開催予定
フェイスブック公式ページ

pagetop