身近なところからの学問
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JR東北本線の福島駅と郡山駅の中間に、二本松駅があります。上の二枚の写真は二本松駅で撮ったもので、漢字やひらがな表記の下にローマ字でnihommatsuと記されています。また一番下の写真は二本松駅から100メートルほど離れた交差点の道路標識を撮ったもので、こちらはnihonmatsuとなっています。「にほんまつ」の「ん」を、駅のほうはm、道路のほうはnで表示しているわけです。面白いですね。ではなぜ、このようなことが起こるのでしょう?
言語学では「音(音素)」と「音韻」とを分けて考えます。音とは、物理的な音のことですが、音韻とは、その言語を話している人にとって言葉として理解されるごく限られた音のことです。わかりやすく言いましょう。日本語話者は、n, ŋ,mという、音としてはそれぞれ異なるものを、すべて「ん」として理解します。例えば、本屋、本棚、本箱は、音としては、hoŋya、hondana、hombakoです。(実際に声に出して読んでみて下さい。違いがわかると思います。)ところが、日本語話者は、これらの音を別のものとは考えずに、全て同じ「ん」と捉えます。
おそらく駅の標識のほうは、「にほんまつ」の「ん」が、次の「ま」との関係で、音としてはmになるので、音に忠実に表記したのでしょう。道路標識のほうは、詳細はよくわかりませんが、「ん」はnで統一表記することになっていたのかもしれません。
駅や道路の標識といった日常のささいな事柄からだけでも、ミニ学問は成立するのです。そしてこれは、言語とは何か、言語は人間という動物の本質的特徴であるのか、それを失えば人間は人間でなくなるのか、未習得の新生児はまだ人間ではないのか(そんなはずはない)、言語が音から成るとすれば、なぜ手話はジェスチャーではなく言語だとされるのか…といった現代思想にとって難しい問題と地続きになっています。
