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「学長からの手紙」番外編 〜 新聞・雑誌への寄稿文から 〜

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2011年1月10日付 週間医学界新聞 新春企画「In My Resident Life」

「臨床整形外科」(編集主幹:菊地臣一本学理事長兼学長)などの医療系学術専門誌出版社「医学書院」が発行するタブロイド紙が「週間医学界新聞」です。新年第1号発行「レジデント号」の巻頭新春企画「In My Resident Life −失敗是成功之母−」では、下記テーマによる研修医時代のエピソードなどを通して、研修医・医学生を力づけるメッセージを贈りました。

① 研修医時代の“アンチ武勇伝”
② 研修医時代の忘れえぬ出会い
③ あのころを思い出す曲
④ 研修医・医学生へのメッセ−ジ



医学書院 http://www.igaku-shoin.co.jp
  (「週間医学界新聞」 紹介ページ)
   http://www.igaku-shoin.co.jp/paperTop.do

病棟での創処置(研修医1年目)

In My Resident Life

① 研修医時代の“アンチ武勇伝”
「一晩中、アンビューバッグを押し続けた夜」
私の医師としてのスタートは、生涯忘れられない患者さんとの出会いから始まった。
この患者さんは36歳の女性、M.Iさんであった。上肢のしびれと下肢から上肢へと拡がる麻痺を主訴として1971年8月2日に整形外科病棟へ入院してきた。
この年の5月の連休明けに入局して3か月しか経過していない私が担当医となった。当時は、グループ制とは名ばかりで、1年目で入院患者さんを担当していたのだ。
この患者さんは、10日後に突然、換気不全と循環不全に陥り、ICU(当時はICUという名称は許可されず、中央病棟と言っていたが)に収容された。

ICUなど入ったこともない新人医師が、看護婦さんや外科医にバカにされながら、言われるままに指示を出し、処置をした。実際、指示の出し方も処置の仕方も知らなかった。
気管切開後、当時最新鋭の機器である人工呼吸器が接続された。ところが運の悪いことに、その日の夜8時ごろに人工呼吸器が故障してしまい、用手で人工呼吸を行う羽目になった。予備の人工呼吸器はなかったのである。
私は、アンビューバッグで一晩中、人工呼吸を続けた。ひとりで続けていた私を見かねて、年長の看護婦さんが、午前5時に「トイレに行ってきなさい」と5分間だけ代わってくれた。
朝8時までバッグを押し続けた。患者さんが、この間ずっと、私を見続けていたのが今でも鮮明に目に浮かぶ。

このトラブル以来、私に対する看護婦さんたちの態度が一変した。
パカにしたような態度は影をひそめ、親身になって面倒をみてくださるようになった。

ある日、この女性の胸部X線を麻酔医に求められて探してみたら、撮影されていなかった。撮影する暇もなかったのだが、 言い訳はできなかった。やむを得ず、前医である2つの医療機関を尋ねて胸部X線を貸していただいた。
患者さんにかかりきりになっている間、この作業をひとりでやっていたのである。
先輩の不親切さ(大学紛争後は“自主研修"が合言葉であった)と組織としての連携の不十分さが深く心に残った。

人工呼吸は527日間に及んだ。私は1979年に大学を辞めたが、その後もこの患者さんが気になっていた。
そこで当時勤務していた東京の病院の神経内科医に診察を依頼した。精査加療が必要とのことで、自衛隊のヘリコプターで東京の病院へ搬送した。
当時、その病院の麻酔科部長が病院関係者に非難されたそうだが、結果的にはこの英断が患者さんを救うことになった。

最終診断は、大後頭孔部の脊髄腫瘍であった。
入院時、脊髄造影(当時は油性造影剤)は行っていたが、頭頚移行部は観察しなかった。そんな可能性を考えていなかったこと、そして油性造影剤が頭蓋内に入ると抜去しにくくなるのではということが、発見が遅れた要因の一つだったように思う。

患者さんは、手術により完全に回復した(先年、他疾患によって逝去された)。
今から振り返ると、この患者さんとの出会いが、神経学、神経解剖、そして脊椎・脊髄外科へ自分を導いてくれたのだと思い至る。

この患者さんは元気になってから、私が毎週、解剖研究のために福島の母校へ行くときに合わせて会いに来てくれた。
人工呼吸器装着中の安心しきった眼差しと笑顔を思い出すと、今でも心にさざ波が立つ。
余談だが、高額な医療費のため、地元の役場では補正予算を組んだとの話を後に聞かされた。


② 研修医時代の忘れえぬ出会い
カナダ・トロント大学ウェールズリィ病院のMacnab I 教授に出会わなかったら、現在の自分はないという意味で、私にとって忘れ得ぬ人である。
大学紛争の余燼(よじん)くすぶる研修医時代、整形外科は自治会なる組織が教室を運営していた。私にとっては、将来に何の希望も持てない日々であった。父が急逝し、開業の夢も消えた。
こんな時期に目にしたのが、彼の2編の論文であった。誰でも見ているX線写真、誰でも行っている手術、しかしその中から論文に提示した事実を発見したのは彼一人である。

何度かの手紙のやり取りの後、英語が全くできない状態での「押しかけ弟子」になることができた。
移民国家である北米では、英語ができないことは無能を意味する。悔しさと情けなさに二度ほど、彼の教授室のトイレで泣いた。
その様子をみていた彼は、「Shinよ、心配するな。人聞は努力できるのも才能の一つである。それは他人に誇り得る財産の一つである」と励ましてくれた。この言葉が自分の人生を変えた。
彼からは、患者をトータルとしてみる(痛みでなく痛みを持った人間を看る)ことをたたき込まれた。


③ あのころを思い出す曲
索漠(さくばく)とした大学での研修時代(自分の不徳の致すところも大であるが)、当時流行っていた「誰もいない海」(渥美マリで、本命盤であるトワ・エ・モアでない!)、「喝采」(ちあきなおみ)、「別れの朝」(ペドロ&カプリシャス)、「時代」(中島みゆき)などの歌が居酒屋や車の中で、流れていたのが心に残っている。
留学中は「マイボーイ」「セイリング」「男が女を愛する時」などをよく耳にしていた。
ただ、留学中に、日本にいたときには聴かなかった演歌に聴き惚れ、好きになってしまったことを、今は懐かしく想い出す。


④ 研修医・医学生へのメッセ−ジ
愚直なる継続

 

( ※ Webページ向けに改行位置を改変し、転載しております)

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