菊地臣一 コラム「学長からの手紙 〜医師としてのマナー〜

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224. 仕事や教育の原点は何かを振り返ろう

原発事故以降、自らの責任を担保として即断即決の日々です。それは、今も続いています。
教授時代、教室をゼロから立ち上げた為に情報の共有化を目的として、「医局員への手紙」を認(したた)めて、自らの思いを弟子達に伝えてきました。その後、管理職の立場から「病院長からの手紙」、今は「学長からの手紙」と、タイトルや内容は変遷してきました。
今では、何か思いついても、もう殆どが繰り返しです。既に同様なことを書いているので、このところは筆を執ることはありませんでした。

只、最近、私がプロであれば当然と思っていることが当然でないことを知りました。
これは、伝えておかなければならないと思い、毎週の 「理事長室からの花だより」 とは別に、弟子達、或いは、次代を担う若者に伝える意味で、改めてここに筆を執ります。

教育とは、“教え、育(はぐく)む” と書きます。
教育が、教育として成立するには、教える側、即ち師と、学ぶ側、即ち、弟子、学生、部下との間に、お互いを求める熱い思いがなければ、出会いは生まれませんし、師弟関係も成立しません。

         千日の勤学より一時の名匠
         三年学ばんより三年師を選べ
         親は選べぬが恩師は選べる

これらの格言は、教育には師の存在が如何(いか)に大切であるかを示しています。
つまり、師の姿勢が次の世代の人間に深く影響を及ぼすということです。教える側は、このことを自覚して教育に臨まなければなりません。

一方、近年の、グローバリズム(国際化)、競争社会が大切という考え方の浸透により、世間では大学ランキングやカリキュラムの優劣が論じられています。
大学は、政府や世間から求められる役割を熟(こな)すのに、汲々(きゅうきゅう)としているのが現状です。

本学は、原発事故という緊急事態に、原発事故以前の体制を主力として事に当たり、今に至っています。
その間、国や県の支援で、徐々に人員や設備が整えられつつあります。しかし、その主たる構成員は、以前から在籍していた教職員です。彼らが兼務で、週末の無い日々を、原発事故以降ずっと送っています。
私は、そのことに深い感謝と、そして、求められている役割を黙々と成し遂げている職員と共に居ることに誇りを持っています。

只、原発事故3年以上が経過して、未曾有の惨禍に対する国民の認識の風化、そして教職員の新たな歴史的使命に対する情熱も冷めつつあるのが現実です。しかし、現場や本県の厳しい状況は変わりません。
そんな中で我々は、大学が本来、求められる役割は何かをもう一度見直そうということを目的に、「ビジョン2014」  を作り、「未来の覚悟」を示す式典を行いました。
 (平成26年6月1日挙行 本学ホームページ トピックス 参照 )

原発事故対応という歴史的使命を果たすと同時に、本来、大学に求められる役割を果たすことは、容易(たやす)いことではありません。
私は、今、教える側も教えられる側も、教育という原点を忘れているのではないかという危惧を持っています。
先日、辞令交付式に向かう為に構内を歩いていると、何人かの学生が私の挨拶を受けながら往き交いました。私はそれを不審に思い、ある教授に聞きました。彼は、「教える側の遅刻もある」と答えました。

私は愕然(がくぜん)としました。教える側が授業の開始時刻を守らずに、学生の遅刻を厳しく指導することは出来ません。実習で、学生をカンファランスに集合させておいて、指導教官や担当者が時間通りに来ない、学生を平気で待たせているということも言語道断です。
時間を守ることは、目的ではなく、相手に迷惑を掛けない為の手段です。どうしても遅れるなら、連絡をするのが礼儀です。そんな仕事の原点すら忘れ去られているのが現状です。

暗澹(あんたん)たる思いでいるところに、今度は卒業試験を忘れてしまった教官がいたというのです。
私は言葉を失いました。

カリキュラムの充実は大事です。実習時間の増加も必要でしょう。しかし、それ以前に、もっと大切なのは、「時間を守ること」です。
予定を時間通りに遂行する為には、それが前提です。それは、教える側にとっても、学ぶ側にとっても同じです。私の教授時代、幾つかの診療科で、学生実習の集合時間に教官が来ないで、1時間以上、放っておかれたという話を何度か学生から耳にしました。そんな教官に学生は信頼や魅力を感じるでしょうか。否です。

今、我々に求められているのは、原点に戻ることです。
教える側が襟を正して初めて、学ぶ側も襟を正すのです。高邁な教育論を紹介したり、充実したカリキュラムを作ることも大切です。しかし、そんなこととは関係なしに、ブランドと目されている大学に人が集まります。寄らば大樹の陰で、大都会に人は吸い寄せられます。それはそれで良いのです。
福島の地に六本木ヒルズや銀座の街並みは作れません。そうであるなら、自らが六本木ヒルズや銀座になるべく、自らを磨くことです。学生に「あの先生の下で学びたい」という思いにさせることです。

仕事でも同様です。最近、幾つか気になることがありました。
一つは、宛名は確かに私宛てに来ている手紙ですが、中の手紙を開けると「各位様」です。わざわざ個人宛てに手紙を出しておいて、中身が「各位様」です。その組織の哲学、或いは、一人ひとりの組織を構成している人間の見識を、私は疑います。

本学でも、派遣元の県の習慣だということで、担当の係名しか書いていない、名前が書いてあっても苗字だけの書類というのが普通でした。私が「責任を明確にする為にも、個人名を入れなさい」と言って、漸(ようや)く直りました。内部に居ると、それがおかしいという感覚が麻痺してしまうのです。

原発事故の発生を受けて、県民の健康を長期に渡り護(まも)っていく組織をゼロから立ち上げました。そして今、福島県民の健康を見守る作業を懸命にしています。
気の遠くなるような、膨大な作業です。しかも、原発事故後半年で立ち上げた組織は、それを立派に遣り遂げて、国際的にも高く評価されています。只、海外発信の問題や間違いの続発といった是正すべき事柄は山程あります。

我々は、何かの仕事に当たっている時は、少なくとも、各人の領域でのプロとしての仕事を要求されます。“Professionalism” とは、欧米では、以下のようなことが記されています。

・ 目的に対する単純、強固な意志
・ 単に努力することによって、より高度 なものに到達し得る時、 低い水準における満足感を拒否する
・ 栄光の陰の骨身を削る努力
・ 自らの努力なくして人生の果実を期待してはならない
                                                  Dick Francis

プロである以上、時間で給料を貰っているのではなく、仕事の結果で給料を貰っているのです。

求められるプロのレベルというのは、それを行う人間の能力や都合に合わせてはくれません。
時間が足りないなら、夜を日に継いでやれば良いのです。
能力がないと思えば、「愚直なる継続」の実践です。
時間がない、というのは禁句です。「人生は短いのではなく、実はその多くを浪費しているのだ」(セネカ)を思い出して下さい。

自分の仕事の能力が要求に達していなければ、周囲からの支援や協調を得ることも必要でしょう。それが上手くいくかどうかは、普段、出会いを大切にしているかどうかです。
「人生の扉は他人が開く」のです。もう少し、お互いに、このような事を意識する必要があるのではないでしょうか。

教育や仕事というのは、双方に相手側に対する尊敬と信頼を持って接する態度があり、愚直に継続することによって、初めて成立するのではないでしょうか。

 

 

(2014.11.12)

 

 

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