菊地臣一 コラム「学長からの手紙 〜医師としてのマナー〜

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157.全く汗を流さないなら、それに相応しい人生しか望むな

こうまで忙しくなってくると、時々周りの事柄が非常に不愉快に感じられます。最近のマスコミの論調を見ると、「優しい」ということが至高の価値あるものであるかの様に謳い上げ、平和を唱えていれば、平和が永遠に続く様な錯覚を我々庶民に思わせます。平和、平和と叫んでいるのは、世の中が平和でないから平和を叫ばなくてはならないのでしょう。「交通安全」を叫ぶのは、交通が安全でないからでしょう。しかし、世の中、若い人ほどマスコミの論調を自分の経験に照らし合わせて検証することは出来ません。その為に、「涙と共に種を蒔き、喜びと共に刈り取る」という旧約聖書の言葉が絵空事の様にすら思えます。

最近のマスコミの論調の一つに、「無理しない人ほど強くなれる」という文章を見つけました。論文査読者の様な気持ちでこれを読むと、幾つか腹が立つことがあります。医局員の論文なら、「何を考えて書いているか、やめちまえ」というところです。例えば、「無理をしない人ほど」と言いますが、無理かどうかは誰が評価するのですか。本人ですか、他人ですか。これは個人によって、その感じ方が極めて異なる問題だと思います。また、この標語は格好良いのですが、「強くなれる」という言葉には非常に抵抗を感じます。何が強くなるのか。私の様な人間から見れば、「屈辱に鈍感になれ」、或いは「誇りを捨てろ」、という意味もあるのですかと言いたくなります。この曖昧な台詞に、書いている人の人生観すら伺える様な気がします。しかも、もっと悪いことに、この言葉は、無理しなければ如何にもしなやかに、個性を生かして生きていける様な錯覚さえ若い人に思わせます。

そういう目でマスコミの論調を見ていると、大同小異の記事が目に付きます。例えば、「制服は個性を損なう」という文章がありました。私から言わせれば、「制服ぐらいで損なう様な個性は個性ではない、そんな個性なら捨ててしまえ」と言いたいところです。また、個性と言う言葉には、最近のマスコミの論調は、「良い」と言う意味にしか捉えていませんが、そんなことはありません。個性には悪い個性も良い個性もあるのです。生きていく上での良い個性や悪い個性が世の中では問題になるので、個人としてどんな個性を持っているかは余り問題になりません。放任こそが現在のギシギシした不条理な世の中を解決する様なことを言いますが、もし、放任で全てが解決するなら、イタリアで実際にあった狼少年という悲劇は起きません。

更に続けます。「好きな物だけを食べる様な給食にしたら、その結果子供たちは大いに食が進んだ」という記事がありました。これは、新聞のコラムでも指摘していましたが、「世の中には我慢してでもしなければならないこともある」という教育が、世の中を生きていくのに必要なこととして教える事も必要です。世の中が、学校の様に常に優しく、平等な社会ではないし、その実現を世の中に期待して生きていくうちに、自分の寿命は尽きてしまいます。中国五千年の歴史から生まれた人生訓や処生訓は、今尚有効に働いています。ということは、言葉を変えて言えば、世の中の人間の心や行動、様式は全く変らないということの証明でしょう。

他人よりは汗を流したくない、しかし他人よりはより増しな(人によりその価値は様々ですが)人生を送ろうという気持ちが出てくるのは普通な事だと思いますが、それはどだい無理というものです。以前にも書いたかも知れませんが、プロフェッショナルな世界を見れば、目に見えないところでの血と汗の苦闘は皆大なり小なりしています。それは、一流と目される人ほどそういう要素はあると思います。しかし、そこから先はその人の人生観によって別れると思います。ある人は、そういうことを他人に見せることを格好悪いと考え、他人の前では何も努力していない、常ににこやかに、自分の才能だけによって仕事をしているように見せることを良しとするタイプです。もう一つのタイプは、痛々しいまでの苦闘を人に見せて、それをバネにして自分の能力を伸ばしていこうとする人間です。良い、悪いの問題でなくて、人間には2つのタイプがあります。従って、他人の目に努力が見えない、だからその人は努力をしていない、ということにはなりません。やはり、現在でも「涙とともに種を蒔き、喜びと共に刈り取る」という言葉の持つ大切さは、厳然と生きている様な気がします。

 

 

 

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