菊地臣一 コラム「学長からの手紙  〜医師としてのマナー〜

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115.真の優しさとは何か

真の優しさとは何かは、私自身の気持ちを確かめる意味でも、以前にも度々書いています。

つい最近アメリカの中間選挙が終わりました(注:この文章は1995年頃に書かれたものです)。その結果何十年かぶりで共和党が上院・下院の多数を占めました。その時の争点に、小さい政府か大きい政府かについて大論争があり、遂に小さい政府を主張する共和党が勝ったのです。この時の面白いエピソードを古森義久氏が「Voice2月号」の「時代の先を読む」に書いていました。

それは共和党下院院内総務のリチャード・アーミー議員の発言です。「真の思いやりは、弱者に金を注いで他者依存を固定化する事ではなく、自助能力を育てる事である」というものです。この発言の背景にはそれなりの理由があります。アメリカ中間選挙での争点は、政府が社会で果たす規制や支援の役割をできるだけ削ろうという小さな政府に就いてです。何故小さな政府を目指そうと努力しなければならないのかは、日本ではちょっと想像もできないような事が既に起こっているからです。

即ち政府予算の社会福祉関連の支出が、連邦予算の歳出全体の40%以上を占めているという現状があります。この中には独身や未婚の母に、扶助を与えている項目すら入っています。しかもこの福祉を当てにして、未婚の女性がどんどん子供を産み、その多数の子供はほとんど教育も受けさせて貰えず、結果的に非行に走るという状態が、アメリカの治安悪化の最大の原因だとされています。教育の機会の無さと、保障を受ける為に子供を作るという二つの事で、坂を転がり落ちるようにアメリカの下層社会が崩壊していっているのです。

私が「医局員への手紙」の中でこれを挙げた理由は、我々の医師としての生活、或いは医師としての自らを磨く事の中にこのような「偽りの優しさ」が入ってやしないか、という自戒をも込めた自制です。教育する側は、若い人に手取り足取り金、力や知恵を与え、かつ技術、知識、研究テーマを与えている事が、果たして本当に若い人間の為になっているのか、もっと厳密に言えばその人間はそうされる事に対して、喜んでやっているのか、即ち本人がそもそもそうされる事を望んでいるのかという、素朴な疑問です。飲みたくもない水を飲ませようとさせられる牛や馬を水辺に連れて来ても、彼等に飲む気がなければ飲みたいとも思わないし、水辺に連れて来てくれた事自体が、牛や馬にとっては甚だ迷惑かもしれません。

医師として後ろ指を指されない、或いは他人に批判されない技術、知識や人格を形成するのは、並大抵の努力ではありません。それは今も昔も変わりません。顧みると私自身は余所の病院や余所の環境で色々なものを見たり、経験をし、「大学とはこうあるべきだ。大学の診療や研究というのは、このくらいのレベルがなくてはならない。大学の医師は、その研修中に公務上では芝居をしてでも患者さんや職員の信頼感を勝ち取るKnow-howを身に付けなければならない」という事に思い至りました。教授就任をきっかけにそれを懸命に医局員に教えました。「日本のトップレベルはこうである。世界ではこうである。だから我々もこうしなければならない」と。自分の住んでいる県だけで通用する臨床、研究レベルというのは、現代では通用しません。これだけ情報や交通が発達すれば、患者さんは良いと思えばどこへでも出掛けていきます。現に我々はそれを今、眼前に見ています。

教授就任後4年が経ち、ある時後ろを振り返りよくよく考えてみて、呆然とした事を告白しなければなりません。そもそも「医局員が、全国での研究にしのぎを削っている厳しさやレベルの高さを自覚しているのか」「自覚しているとしたら、彼等と対等に渡り合うには自分達が懸命な努力をしなければならない」と本当に思っているのか。ひょっとしたら彼等自身はそのような事を望んでいないのではないか、例え他人に蔑まれようと、あるいは医師としての誇りが傷付けられようとも、そこまでのことを自分自身の心の中では要求していないのではないかという危惧が、私自身の気持ちに芽生えました。

だとしたら今まで自分で築いてきたと自負してきた、医局員の研究や診療でのマナー向上は、実際には彼等は教授に逆らえないから嫌々やっていたのではないかという疑念です。やはりこの辺で彼等自身がどう思っているのか、彼等自身がどう思っているのかの程度によって、彼等自身が自主的に医局の診療・研究を行い、自分達の自律で医局を運営してみるのも、一つの方法ではないだろうかと思うようになりました。

その結果私の目からみて医局員の仕事や研究のレベルが不充分で歯がゆいと思っても、所詮それが彼等の真の実力ではないだろうか。もしそれが私の目から見て、他大学や世界的なレベルから見て足りない面があったとしても、彼等がそれで納得していれば、それはそれで残念ながらその現実を認めざるを得ないのではないだろうか。私に無理やり尻を叩かれて登り詰めたレベルは、私の鞭がなくなればまた落ちるのは必定なので、むしろその方がいいのではないかと思うようになりました。これは教育に関する永遠の問題かも知れません。

 

 

 

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