ロールモデル集
小林 大輔 細胞統合生理学講座 講師

ある日私の元へ「福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと」という後輩に伝えたいメッセージの執筆依頼が来た。ロールモデル紹介の取組である。最初の感想は「なんと仕事の速いことか」であった。と言うのも、私は令和4年度から本学のダイバーシティ推進室員を拝命し、この手の話に片足を踏み入れたばかりであったからだ。きっとその関係で私に白羽の矢が立ったに相違ない。私は農学部出身であり医療系学部出身者ではないため、本学の後輩達のロールモデルになりえるかと自問自答しながらも、折角なのでこの機会に皆さんこれから人生を考える際の材料になればと思い、ここに私のことそして私から後輩へのメッセージを綴らせて頂く。
個人情報保護がうたわれるなか、明け透けに個人情報を公開するようであるが、私は高校2年生の時に大怪我をした。詳細は割愛するが、救急搬送されたときには右半身麻痺、言語障害があり、自分の名前も分からない状態であった。回復は徐々にしたものの、最初は今日が何日であるかとか、簡単な計算(100から7を引くなど)が分からず、親にも随分と心配をかけてしまった。その後無事退院し、日常生活に戻ったのだが、この時得た教訓は、“人生には突然がらりと変わる一瞬があり、そのような事態になったことを嘆いても何も解決しない”ということである。「以前はできていたことが何故今はできないのか」、「本来ならば今はこんなはずではなかった」と嘆いても、現実は何も変わらない。それならば、今できること、これからできることをどう行うかの方が余程建設的なのである。大学受験を控えていた私はその後とても真面目に勉学に励み、一時期簡単な漢字も読めない、算数の計算もできないという状態からなんとか大学に進学できた。思えば今も含めて人生で一番真面目に勉学に励んだ時期だったと思う。また、この怪我がなければここまで真面目に勉強をしなかったのではないかとも思う。まさに「人間万事塞翁が馬」である。
医学部は学部6年間の後、大学院4年間がスタンダードな修業年数であるが、総合大学では学部4年の後、修士2年、博士3年という流れになっている。私は学部在学中より研究者の道に進みたいと思っており、母校の大学院(修士・博士)へとそのまま進学した。私の指導教官は放任主義であまり細かいことはいわず、学生の自主性に任せていた。そのおかげか、学会先で知り合った他大学の先生、先輩・後輩と仲良くなり、気がついたら修士の時には他大学のラボで実験手技を学ぶということを経験させてもらった。私にはこの自分が所属する研究室を飛び出して、異なる研究室で研鑽を積むという経験がとても良かった。自分の大学、研究室の慣習や指導方針と異なる慣習・指導方針に触れられることによって、相互の良いところ、悪いところを感じた。「石の上にも三年」、何らかの体系だった知識、技術、経験などを習得しようと思うと一定の年月を要するが、時には自分が所属する集団からひとつ外に飛び出す経験も大切である。研究関係であれば他研究室で実験をしてみると、結構研究室独自のルールがあることに気がつく。合理的なものもあれば、只の慣習でしか無いものある。このような事に気がつける機会は外に出ないこと分からないのだ。また、これらは研究・仕事だけに限らず、人生についても同様である。例えば旅行でも良いのだ。福島県外に飛び出して、自県とは異なる慣習に触れる、日本を飛び出して日本人とは異なる感覚、文化などに触れることで新しい刺激が得られると思う。仕事ばかりしていても駄目なのである。そして、戻ってきた後に外の良い文化を取り入れて改善し、既存の良い文化を残していくと良いと思う。
最後に(一般にはライフイベントやライフと呼称されている)プライベートとワークについて語りたい。私の事例・考え方はあくまで一つのケースであり、色んな意見があると思うが少し紹介する。私は博士課程の時に結婚し、子どももいた。学位取得のための研究を進める傍ら、慣れぬ育児も行っていた。朝は子どもを保育所に預け、昼間は大学で研究を行い、夕方に一旦戻って子どもと過ごしたのち、また大学に行くというスタイルである。毎日ではないが、生活費を稼ぐために夜勤のバイトを朝まで行い、仮眠を取ってまた大学へという日もあった。時には週末に子どもを連れて研究室に行き、後輩に面倒を見てもらっている間に実験を行ったことや、夜中自宅で学位論文を執筆中に子どもにミルクを与えていたことを思い出す。当時子どもが大学のデスクに置いてあった耳かきの梵天に蛍光ペンで色を塗り、実験ノートにアートを仕上げてくれた耳かきは、今も手元のデスクに置いてある思いでの品だ。今考えるとよくやっていたなと思う。このような生活が成立したのは、一重に妻と周囲のご理解、手助けのおかげであった。実家に子どもを預けること、研究室に連れて行くことは日常茶飯事で、子どもにかかる行事で日中休むことも増えた。このような生活が無事送れたことは研究室のメンバー、指導教員が快く迎え入れてくれたためである。私も少々自分が情けないと思いながらも好意に甘えて両親、周囲を頼りまくった。今現在、子育て中の皆さん、これから家族が増える計画の皆さんに私から伝えたいことは、どんどん周囲を頼って欲しいということだ。無人島で子育てをしているわけでなく、人と人との繋がりのある社会の中で生活をしているのだ。周囲には助けてくれる人が必ずいる。もっと周囲を頼って良いのだ。また、諸先輩方は、頼って貰える環境を作って頂きたい。職場であれば休み等を言い出しやすい、相談しやすい雰囲気づくりなど意識して欲しいと思う。「情けは人の為ならず」、人を思いやる心があれば、巡り巡って自分に返ってくるものだと私は思う。
令和4年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~
(所属・役職は執筆当時)
令和3年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~
(所属・役職は執筆当時)
令和2年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~
(所属・役職は執筆当時)