ロールモデル集
黒田 るみ 看護学部 基礎看護学部門 教授

令和3年4月,私は茨城県の自宅に主人と3匹の犬を残し,本学看護学部に単身で赴任した。28歳の時に長女を出産し,その後,家事をしつつ仕事を続けてきた私にとって,24時間を自分のためだけに使える今の生活は,幸せな,贅沢な時間となっている。昨年度,知人に送った年賀状の中で,私は「この時が来るのを28年間ずっと待っていた。やっとその時がきた,という気持ちです」と書いた。主人も娘たちも,私にとってはかけがえのない大切な存在であるが,それとは別次元で,自分の仕事がとにかく好きである。
現在55歳の私が20代の頃,看護師が結婚や妊娠を機に退職することは当たり前であった。中には,出産まで病棟勤務を続ける看護師もいたが,夜勤はできない,力仕事はさせられないなど,当人のいないところで,周囲の人たちはよく批判していた。私は周りの人から陰口を言われながら仕事をすることが怖くて,長女は,大学院博士課程の1年目,次女は海外から帰国した時など,仕事から離れた時期に出産することを選択した。
結婚後は,千葉,米国,栃木,埼玉,茨城と,主人の勤め先の異動に伴い,私も職場を探した。次女が6ヶ月になった時に,大学病院の外来看護師として就職した。日勤だけの非常勤看護師である。主人や私の実家は他県にあり,知人もいなかったため,子育ては,基本的に主人と私とで行い,活用できる制度は何でも活用した。当時住んでいた栃木市では,ファミリーサポートセンターが開設されたばかりであった。我が家は真っ先に登録し,活用も第一号であった。センターの普及にと依頼され,栃木テレビに当時0歳の次女と二人で出演し,共働きの核家族夫婦にとって,このセンターがいかに頼もしい存在か,話したこともある。病後児保育にも制度の開始と同時に登録した。また,幼稚園の長女は,終園時間後にその幼稚園で行われる習い事に,月から金まで,ピアノ,英語,コンピューター,習字,読み書き計算など,19:00ごろまで通わせた。
埼玉県への転居が決まり,神奈川県の大学に常勤の教員として勤務することになった。大学院時代の先輩の伝手で,飯能市から約1時間半かけて通勤した。採用時,フレックスタイム制なので,授業・会議がなければ出勤時間は自由で良いと言われ,子育てとの両立も可能と考えたが,採用後,私は自分の考えの甘さに気づいた。19:00開始後2時間続く会議もあり,修士論文提出前は,年始の1/2から出勤した。求められる仕事に追いついていけない自分に焦りを感じていた私は,仕事との両立について,子育てをしながら勤務を続ける数少ない女性教員に,たまたま居合わせたエレベーターの中で質問をしたことがある。その時,彼女から「私は職場で家庭の話はしません」ときっぱりと言われ,驚きつつ,これが一般基準なのだと思い知った。その後は私も,質問されない限り,職場では家庭の話はしないことにした。
同時に,私は子供たちの授業参観にも学校の行事にも,出席するための努力を諦めた。この時期,子供たちには,随分と無理や我慢をさせたと思っている。例えば,長女が小学4年生の時,41℃に発熱している娘を1人自宅に残し,90分2コマの講義をするため,約6時間,仕事に出かけたことがある。その後,長女がこの体験を作文に書き,地方ラジオで朗読することになった。私は,長女の同級生の母親から「Yちゃんの作文,録音したからダビングしてあげますよ。黒田さんも大変ね」と言われ,その録音を聴いて初めて,娘の作文の内容も,ラジオで朗読したことも知った。大学の講義で,他者の健康とか,責任感とかいう話を学生にしている自分が本当に恥ずかしくなった。
その後,義母の体調の悪化をきっかけに,茨城に転居した。そのため,茨城から神奈川県の大学まで,片道3時間をかけて通うことになった。明け方4:50に自宅を出て始発に乗り,終電で帰宅すると1:30であった。通勤時間を削るため,片道100km,首都高速を通って自家用車で通勤したりもした。帰宅後,家族と顔を合わせることはなかったが,“自宅から通う”ということが,母親,妻として最低限の義務だと思った。しかし,転居後半年過ぎた頃,不正出血が続き,病院で検査を受けた。主治医に「治療が必要な疾患はないが,もう無理のできない年齢なのだから,心当たりがあるなら対処したほうがいい」と言われ,自宅近くの職場を探すことにした。しかし,41歳の自分の業績や専門に合致する自宅近くの大学教員の募集は見つからなかった。
当時私は,臨床に戻るなら在宅看護を経験したいと考えた。理由は,私の専門とする基礎看護学分野でも,在宅医療を見据えた教育を,という国の方針が出されたものの,在宅看護を実際に経験している基礎看護学分野の教員は非常に少なかったからである。最終的に,自宅から車で15分の訪問看護ステーションに就職し,私はそこで一番できない新人訪問看護師になった。その地域もわからない,約120件の訪問先の場所も,行うケアもわからない,一つ一つ教わらないと何もできなかった。それまで大学の准教授として自分の専門を語り,どちらかというと組織を動かす立場にあった自分が,黙って多くの人に頭を下げて教わる立場になった。6ヶ月ほど経って,対応困難と言われるケースの担当を任されるようになり,直接,責任をもって,看護を工夫しながら関わることにやりがいを感じる一方で,学会等で,教育・研究の分野で活躍する学生時代の同期の名前を見つけると,自分の不甲斐なさを見せつけられるような思いもして,同窓会に出席することが辛くなった。
訪問看護師として3年が過ぎた頃,訪問看護ステーションが併設されていた病院の教育専従看護師となった。前任者のいないポストで,看護部の職員への研修の企画・運営,看護学生への臨地実習指導,中・高生対象の職場体験等の企画・運営が私の仕事になった。
訪問看護ステーションでの送別会の席で,当時の病院長から「あんた訪問看護師,何年やったんだ?」と聞かれ,「3年です」と答えた時,病院長から「よく3年も我慢したな」と言われ,救われた気持ちになったことを今でも覚えている。この病院長は,在宅医療部門を開設し,病院長就任後も往診を継続されていた。利用者の方々から絶大な信頼を寄せられており,どの利用者の方々も主治医を続けてほしいと譲らなかった。私は,その時,人の気持ちに寄り添うには,多くを語る必要はないのだ,本当にわかって欲しい相手の気持ちを理解していることを表現できる一言があるのだと,言われる立場になって知った。
話は尽きないが,私にとって,子育てをしながらの勤務は,「こんなはずではなかった」と思うことばかりであった。しかし,改めて振り返ると,大学院生時代に古本屋で見つけた河合氏の本の一節にある「人間を成長せしめるものは学校による訓導ではない、人生における悪戦苦闘である」という表現が,まとめに一番ふさわしいように思う。子育ても仕事も,自分の思うようにはいかない。それら両方を継続するということ自体,“人間の成長”という点で,意義のあることだと思っている。
河合榮治郎:河合榮治郎全集第14巻 学生に与う、社会思想社、5-274、1967.
令和4年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~
(所属・役職は執筆当時)
令和3年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~
(所属・役職は執筆当時)
令和2年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~
(所属・役職は執筆当時)