公立大学法人 福島県立医科大学 ダイバーシティ推進室


ロールモデル集

藤森 敬也 産科婦人科学講座 教授

藤森先生

 私は、宮城県角田高等学校から昭和57年に本学に入学いたしました。皆さまご存じない高校だと思いますが、当時、学区制が厳しく、公立普通科というと角田高等学校しか受験できませんでした(競争率1倍越えは過去になし)。仙台のナンバースクールにコンプレックスがなかったと言えば嘘になりますが、共通一次試験を40名ほどしか受けないマイナー高校でしたが、福島県立医科大学医学部には3名受験し3名現役合格、弘前大学医学部に2名、東北大学にも数名合格するという快挙を実現した学年でもありました(1年先輩に、秋葉賢也元復興大臣、弘前大学産科婦人科・横山良仁主任教授がいらっしゃいます)。そして、昭和63年福島県立医科大学を卒業後、本学産科婦人科学講座に入局、そのまま大学院に進学し産婦人科学を専攻いたしました。なぜ、産科婦人科学講座に入局したかと申しますと、当時、不妊症研究・治療のメッカ(1994年、本邦で初、世界で2例目となる細胞質内精子注入法による出産例を報告)と言われていた産科婦人科学講座が光り輝いており、また、前任の故・佐藤章名誉教授が私を最も高く評価してくれたからです。佐藤教授と星助教授(元・山梨医科大学産婦人科主任教授)がカッコ良く、何でもできそうな気がしました。佐藤教授と星助教授が東北大学から赴任されていなければ、私は産婦人科学を専攻していませんでした。

 無給医局員であった大学院在学中は、他の医局員と変わりない日常業務、当直業務をこなし、産科、婦人科症例すべてにおいて、大学病院でしか経験できない貴重なハイリスク症例を経験させていただきました。また、大学院2年生の時にはNICUにて研修させていただきました。2年上に6名、1年上に10名、同級生が7名入局しているということから、手術症例がなかなか回ってこないため、自ら進んで当直をこなしました(ご存じのように産婦人科は臨時の手術が多いです)。

 私は、佐藤教授のライフワークであった妊娠羊を用いた胎児生理学研究グループの末席に加わりました(本当は不妊症を専攻したかったのですが、専攻させてもらえませんでした)。大学院3年生(1991年)の冬だったと思いますが、ヒツジ(当時はヤギ)の実験がなかなか上手くいかず、鹿児島大学獣医学部と共同研究をしていた鹿児島市立病院(1976年、本邦初の正常発育した5つ子誕生)まで、ヤギの麻酔とChronic preparationのテクニックの見学に行かせて頂きました。このヤギ胎仔手術の見学とヤギの腰椎麻酔をご教授頂いた後からは、お陰様で福島での実験はとんとん拍子に上手くいくようになり、私は研究テーマを完遂でき、4年で無事大学院を修了し、学位も頂くことができました。現在でも当教室ではヒツジ胎仔のChronic preparationによる胎児生理学研究をお家芸として継続しています。

 大学院修了直後の平成4年4月から2年間、米国・カリフォルニア大学アーバイン校へ留学の機会を与えていただきました。留学中は教授宅に居候させていただき、さながら内弟子生活でした。大学院時代と同様、妊娠羊を使った胎児生理学の研究を継続しながら、毎日、レジデントに混ざって臨床カンファレスや外来症例を見学させていただき、希少ハイリスク症例をたくさん経験させていただきました。最先端の米国臨床医学を学びながら、エビデンスに基づいた診断治療の大切さを教えていただき、また、たくさんの歴史的論文や教科書に出てくるような人物に接する機会を与えていただきました。現在においても、この時期に蓄えた知識、経験が、診療、医局員、学生への教育に生かされています。「自分の経験では、と話をする医者は信用するな」とは私の恩師、村田雄二大阪大学・カリフォルニア大学名誉教授のお言葉です。「わずかな経験で判断できるはずがない。稀な症例に沢山出会う可能性は低い。だから論文を読み教科書を読み知識を蓄える。いつもお前は患者に試されている。そのつもりで勉強しろ」と言われていたのを思い出します。

 さらに、2008年の7月より3か月間、再びカリフォルニア大学アーバイン校に臨床見学をさせていただく機会を与えていただきました。16年前Associated professorだったDr. PortoがChairmanとなっており、お願いしたところ快諾してくださり、また、佐藤教授のご高配もあり実現いたしました。主に周産期胎児医学、婦人科悪性腫瘍手術の見学、レジデント・フェロー教育を中心に、16年前とは違った成果が得られたと思っています。産婦人科のオフィスに16年前に撮影された希望に満ちた自分の写真を見つけた時には、もう少し頑張らなくてはと思い直し、自分を見つめ直すいい機会を与えていただいたと思っています。

 私は学位取得後すぐ、28歳という若い時に留学をさせていただける機会を与えていただきました。私も、若い先生にどんどん海外での研究・臨床に携える機会を与えて参りたいと思っておりますし、皆さんもすすんで留学してほしいと思っております。

 最後に、私がこの歳、この立場になって、大学生や研修医時代にもっとやっとおけば良かったと思っていることが2つあります。一つは英会話、もう一つは統計学。これは医局員にも話をしていることです。私自身どちらも全くやって来なかったわけではもちろんありません。初めて海外旅行に行ったのは、大学5年生の夏休みでした。米国・San Diegoに1か月ホームステイして英会話学校(UCSD extension class)に通いました。その後も米国留学時、西海岸での学会の時など、その家族を訪問して交流が続いています。今思うと、もっと低学年の時から何回か行けばよかったと思っています。また、統計学については、現在ではいろいろな参考書やソフトがあり勉強しやすい環境にありますが、私が卒業した35年前はなかなかなく、ダイレクトメールで送られてきた医療統計学の通信教育を受けました。英語と統計学を身につけることは、ある意味、アカデミックの中で生きていくための重要な要素になっていると思います。
 前任の故佐藤章名誉教授が本学に赴任されなければ、間違いなく産婦人科は専攻しておらず、そう考えると、もちろん努力は必要ですが、人生はめぐり合わせで決まっていき、その一つ一つのめぐり合わせが自分にとって何かと感じて決断できるかで決まっていくのではないかと思っております。



令和4年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~

(所属・役職は執筆当時)

令和3年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~

(所属・役職は執筆当時)

令和2年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~

(所属・役職は執筆当時)

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