ロールモデル集
東 淳子 基礎病理学講座 助教

ある日「ロールモデルとして若手医師へ向けたメッセージを書いて欲しい」という依頼がきた時、うちをロールモデルにするなんてやめときなはれ、というのが正直な心の叫びだった。確かに(診療はせずに研究専門ではあるが)私はフルタイム常勤職についている。確かに我が家には子供らしきものが生息している。その上、当大学の男女共同参画推進事業による研究支援を受けているから、原稿依頼を断りたくても断れまい、という魂胆もあるだろう。
だがしかし、云十年「ぼーっと生きてきた」私が現在のキャリアを歩んで来られたのは、ひとえに環境が良かっただけである。育児をしつつキャリアを邁進していく同僚に恵まれており、私はその牛後に「ぼーっと」くっついて行っただけである。そういうわけで私を見習いなさいとは到底言えない。代わりに、この稿では私が出会った強者達を紹介したいと思う。
5年間の臨床経験を経たのちに入学した大学院博士課程の研究室には、私以外に複数の女性医師が相前後して入学した。「彼女達」は非常に明確な目標を持っていた。「学位を取る(当たり前)」ことと「子供を産む(未婚者は相手を見つけるところから始めて)」こと。かくして私の大学院生活の間、研究室では常に誰かのお腹が大きいという事態になった。それぞれの大学院生が個別の研究プロジェクトを担当していたので、誰かが産休でぽっかりいなくなっても他の院生のプロジェクトには影響しないという環境も幸いした。研究内容と並行して子供達の成長や育児の苦労話を皆で共有したことで連帯感も強く、産休中や子供の急病などで最低限の作業を誰かに頼まなければならないとしても、「そこのところはお互い様」だった。彼女達は学位を取り、子供を産み、ついでに専門医も取り(!)、今では臨床の第一線に復帰している。
そんなわけで大学院に入った時にはこれといった人生設計を考えていなかった私も、周囲の出産ラッシュに流されるように最初の子供に恵まれた。周囲は妊娠・子育ての先輩ばかりなので心強いことこの上ない。ただ学位取得後の進路は前述の彼女達とは違った。もともと基礎研究が性に合ったということと、大学院時代に御縁のあった研究者が教授に就任し、「赤ん坊がいることは百も承知」という厚遇で彼の研究室に受け入れてくれたため、第一子出産後に研究員として復職した。前述の彼女達を見習ったわけではないが、その研究室に勤務している期間に二人目も出産した。その後、夫の海外留学が決まり、3歳児と0歳児と共にアメリカへ連れていかれることになった。運がいいことに、連行先の大学でポスドク研究員としての受け入れてくれる研究室が見つかったため、私も留学という形になった。そこで次に紹介する強者に出会うことになる。
私が留学先の研究室に入った初日に教授が言ったことは「何時にラボ(研究室)に来ても何時に帰ってもいい。いつでも休みは取っていいし、事前連絡も事後説明も必要ない」だった。乳幼児がいる私だけ特別待遇というわけでなく、ラボメンバーは家族の事情や宗教行事など自分の生活と実験スケジュールに合わせて、自由に働いていた。言語も常識も違う海外生活の中でラボのこの徹底したフレキシブルさは非常に有り難かった。私の後に大学院生としてラボに入ってきたのが「彼女」だった。彼女は初等教育も充実していない治安の悪い地域で生まれ育ったアフリカ系アメリカ人(黒人)で、多くは語らなかったものの、大学を卒業して大学院へ入学するには並大抵ではない努力があったことがうかがわれた。彼女は将来自分の出身地域の教育の向上に貢献することを目指しており、学位はそのためのキャリアの一環と位置付けていた。それだけでも頭が下がるところが、トドメは、小学生の子供を持つシングルマザーであるということだった。大学院の厳しいカリキュラムをこなすことと同時に、家事も育児も全てが自分の肩にかかっている分、疲れた顔もしばしば見受けたが、人生の目標から決して目をそらさない彼女の姿は、逆境とは縁がなく生きてきた私には眩しく映ったのだった。
翻って我が身を眺めてみると、はたと困ってしまうのである。自分には彼女が持っているような強烈な人生の目標はない。基礎研究は好きだし、研究職は勤務が比較的フレキシブルであり育児に好都合だから、現在の職種を積極的に変えたいとは思わない。かといって科学の歴史を塗り替えるような大発見をしようなんて大それた野望は考えたこともない。せいぜい、人類の科学の縁の下の土台の礎石の石垣の間にはさまっている小さな砂つぶにでもなれたら御の字という身の程である。
結局、育児をしていてもそれを否定的に捉えない環境の職場に恵まれたことと、家庭を持ち育児をしながら自分の目標を失うことなくキャリアを続けている同僚がいたから、こんな私でも今までやってこれたのである。そんなこんなで現在も「ぼーっと」育児と研究仕事をしている。
令和4年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~
(所属・役職は執筆当時)
令和3年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~
(所属・役職は執筆当時)
令和2年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~
(所属・役職は執筆当時)