公立大学法人 福島県立医科大学 ダイバーシティ推進室


ロールモデル集

大田 雅嗣 会津医療センター 血液内科学講座 教授

大田先生

●高校時代,生命現象の神秘性に惹かれたことから漠然と医師になりたいと考えるようになりました。母親が広島での被爆者であったことも意識の中にあったのかもしれません。北海道大学では全学の文化団体の一つである北大交響楽団に入り,ヴィオラを担当,合奏の楽しみさを味わうことができました。いろいろな学部の人間と付き合うことができ,今でも親交があるのはその時の仲間で,多様なものの考え方に接することができたのは大きな収穫でした。楽器の練習が忙しく学部の成績は下から数えて何番という状況でありましたが,在学中,神経症候学に興味を持ち,神経内科の医局に出入りし,関連病院の回診にもついていくようになりました。卒後は神経内科医になるつもりで相談したところ,きちんと内科全体を学んでこいと助言されました。当時大学附属病院にはナンバー内科が3つありましたが,それぞれ縄張り意識が強く,系統だった研修ができないと判断し,先輩の勧めもあり,1979年6月から研修プログラムが充実していた自治医科大学附属病院で初期研修をスタートしました。内科各科を回るうちに内科学の内容に対する興味が変わってきました。それは当時血液学教授だった故髙久史麿先生との出会いがきっかけでした。医局の錚々たる先輩医師の指導もさることながら,血液内科学の学問としての面白さ,顕微鏡で眺める血球の美しさ,分子生物学,分子遺伝学を駆使しての診断のプロセスに惹かれるようになり,また血液がんの患者さんの治療に寄り添う大切さを実感し,2年間の初期研修が終わった時,血液内科医になることを決断しました。母校と自治医大の神経内科には大変迷惑をかけましたが,血液内科への転向を快く許していただきました。

●血液内科の臨床とともに,血液医学研究部門にも所属し,造血幹細胞,白血病幹細胞の増殖・分化を研究テーマとしました。縁があり米国マサチューセッツ州立大学医学部に留学する機会があり,1986年4月から約2年間ボストンに住むことになりました。研究室では効率よく仕事をすることができました。研究者も実験補助者も午後5時になると”See you tomorrow!” と言って帰宅する人が多く,すでにワークライフバランスが確立されていました。夜遅くまで仕事をしているのは日本人研究者だけだと言われました。恵まれた環境の中,2年間でいくつか論文を発表することができました。また様々な人種のスタッフとの付き合いの中で多様性を尊重する雰囲気が身についたと思います。ボストンでの生活は楽しく,当時小澤征爾が指揮するボストン交響楽団の演奏会には足繁く通いました。異国での生活は自分が持っている様々な硬直化した価値観を見直す良い機会となりました。また妻もボストンで研究する機会に恵まれ,現地で初めて生まれた長女を二人で育てたこともすばらしい思い出です。仕事が終わると妻の勤めている研究所に迎えに行き,中国系アメリカ人のベビーシッターさんのところで子供を受け取るという生活がしばらく続きました。

●帰国後,数年経ってから母校の癌研究施設で働くことになり,血液内科の臨床も続けたいので担当医局長に会いに行きましたが,卒業後一日も大学の医局に在籍していないとの理由で門前払いをされました。懐の狭い古い体質が依然として続いていたのにはがっかりしました。職場の上司との関係がうまくいかず,3年で東京に戻ることになったのですが,就職先を紹介してくれたのは自治医大時代の指導医の先生でした。人生いろいろと壁にぶつかることがありますが,困った時誰かが助けてくれるものだと実感しました。

●東京都健康長寿医療センターで1998年7月から血液内科の臨床を再開し8年経ったところで副院長という管理職になりました。医療安全担当でかなり苦労しました。自分の役割は患者を診ることだとの思いが募ってきた時,会津医療センターの元病院長だった自治医大出身の鈴木啓二先生から連絡があり,新たな病院作りを始めるにあたって,会津には血液内科医が一人もいないので来て欲しいと要請され,2010年2月に生まれて初めて磐越西線に乗って会津若松を訪問しました。旧県立会津総合病院の事務,看護,薬剤,検査,放射線,栄養の各部門と血液内科立ち上げの打ち合わせをさせてもらいました。2ヶ月後の4月に赴任し,会津医療センター準備室職員として多くのスタッフの協力のもと血液内科の診療を立ち上げることができ,2013年5月新病院に移りました。光が丘の血液内科学の先生のご支援にも感謝しております。早いもので診療科設置から12年が経過し,会津圏の血液疾患を一手に引き受けてきた自負がありますが,今後は世代交代を円滑に行っていくことになります。また会津に来て地域医療の重要性,多くの問題点を認識することができました。

●2024年3月には職を辞することになりますが,長きにわたり付き合ってきた血液疾患の患者さんともうしばらくご一緒したいと考えています。自分の医師としてのキャリアを支えてくれたのは髙久先生を始めとした自治医大時代に指導していただいた先生であり,キャリアの節目節目での人との出会いが自分を育ててくれたものと感謝しています。また県立医大の理事長を始め,会津医療センター担当理事.諸先生のご支援に心より感謝いたします。 会津の人との関わり合いを持ちながら,会津の山々,日本酒,食を楽しみたいと思います。



令和4年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~

(所属・役職は執筆当時)

令和3年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~

(所属・役職は執筆当時)

令和2年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~

(所属・役職は執筆当時)

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