公立大学法人 福島県立医科大学 ダイバーシティ推進室


ロールモデル集

大平 哲也 疫学講座 教授

大平先生

 私は本学を1990年(平成2年)に卒業しました。学生時代は躰道部、陸上部、スキー部、シーズンスポーツ同好会(ジャストフィット)、医系学生の会等に所属していたため、ほぼ毎日部活動に明け暮れていました(なので、成績はかなり悪かったです)。当然のように毎年再試験を受けまくり、3年生時にはストレス性の十二指腸潰瘍も経験しました。そのことが、私が心身医学に目を向けるきっかけになったのです。卒業後は心療内科医になることを目指して、当時としては珍しく大学ではなく、総合会津中央病院池見記念心身医学センターに就職しました。そして、それが私の流浪生活の始まりでした。

●流浪生活の始まり
 私はいわき市の出身で、本学卒業後は福島県内での医療活動を希望し、県内の病院に就職したわけです。ところが、勤務して半年後、私のボスが浜松医大に転勤することになったのです。自分の人生の中で箱根の山を越えて西に行くことは全く想像していませんでしたが、浜松医大についていく決断をしました。ところが、浜松医大の心療内科は外来のみであり、私は第二内科に所属しながら外来で心療内科のお手伝いをするという生活になったのです(結構肩身が狭かった)。その後派遣された共立菊川総合病院内科での勤務が人生を大きく変えるきっかけになりました。

●予防医学に目覚める
 共立菊川総合病院は地域の中核病院ではありましたが、病床数が300床程度の中規模病院でしたので、全科当直でした。そこで多くの脳卒中等の急性疾患を診ていく中で、発症した患者さんの予防に対する意識の低さに気が付きました。ほとんどの患者さんは高血圧や糖尿病等の危険因子を持って発症していましたが、自分がどの程度脳卒中のリスクがあるのかに無関心だったのです。そのため、患者教育が大事と考え、日々外来で予防の大切さを伝えましたが、外来でできることには限界がありました。次第に地域全体の予防活動の必要性を感じるようになりました。また、統計知識が全くなかった自分を見かねて「やさしい疫学」をとりあえず読め!と先輩に叱咤されたことが疫学に触れる機会になったのです。

●初めての論文は卒後11年目
 予防医学の実践のために、卒後6年目に筑波大学社会医学系地域医療学教室に大学院生として入学し、地域住民における循環器疾患登録と予防活動、そして循環器疾患の心理社会的危険因子の研究を始めました。無事学位を取得して初めて英文原著論文を公表したのが2000年、卒後11年目のことでした。後輩諸君に言いたいのは、「研究は何歳から始めても遅すぎることはない」、ということですが、その一方でもうちょっと早くリサーチマインドを持ち合わせたらよかったんじゃないかという反省もあります。なので、医学部生の頃から何らかの研究に触れて頂きたいということも付け加えておきます。その頃浜松医大のボスが病に倒れ、私は帰る場所を失くしていましたが、筑波大学の教授の勧めで大阪府立成人病センター、及び大阪府立健康科学センターで勤務することになりました。

●退路を断って米国へ
 30歳代後半となり、海外で研究をしてみたいと思ったのですが、多くの海外渡航助成金には年齢制限があり、かろうじて上原記念生命科学財団に申請することができました。奇跡的に申請が通りミネソタ大学での研究をスタートさせることができたのです。ところが、ミネソタ大学に行く際には当初大阪府の休職制度を利用していく予定でしたが、応援してくれていたはずのセンター長がなぜか渡航直前に反対に転じたのです。そのため、ブチ切れた私は退職し、日本には戻らない覚悟で米国に行くことになりました。ミネソタ大学での研究生活は収入が少ないことを除けばまさに理想的な生活で、研究が加速しました。ちなみに、ミネソタ大学では公衆衛生学部の一分野である疫学部門が本校の災害医学・医療産業棟くらいのビルディングを持っており、教員、スタッフだけで300人以上が働いています。わが国との規模の違いに驚きました。ミネソタ大学での約2年間で複数のプロジェクトに研究テーマを申請し、Stroke、Br J Haematol、Cancer、Am J Epidemiolなど異なるジャンルのジャーナルに10本の論文を筆頭著者として公表できたので、自分としては日本にいるときの5倍くらい研究が加速した感じがしました(もっとも論文完成までには時間を要したので2年間で全て公表できたわけではないし、実のところ12本申請していて、2本は時間切れで諦めてしまった)。

●卒後16年目で初めて教員に
 ミネソタ大学で1年半が過ぎ米国でなんとかやっていけそうな気がしてきた矢先、筑波大学の恩師である磯博康先生が阪大の教授になり、日本に戻ってこないかと声がかかりました。正直悩みましたが、日本に戻る決心をして、初めての教員生活を阪大でスタートさせました。この時点で卒後16年以上が過ぎていました。阪大では6年半過ごし(当時、自分人生の中で一番長くいた場所になりました)、縁あって本学に勤務することになったのが2013年2月ですので、卒後23年近く経って初めて母校で働くことになったのです。

●後輩に伝えたいこと
 学生時代臨床にしか興味がなかった自分が、気が付けば社会医学に長く携わることになりました。人生何が起こるかわかりません。学部生に伝えたいのは(というか、学生の時の自分に伝えたい)、まず英語は学部生の時からしっかり勉強しておくということ(卒後頑張ったがいまだに苦手)、また、暗記ではなく自分で考えるくせをつけること、それにはMD_PhDコースのように研究に触れる機会をできるだけ有効に利用してほしいです。正直医学部生の時の授業はほとんど覚えていないが、実習等で自分で調べて発表したことは今も覚えています。そして同級生との繋がりを大事にしてください。卒業してからも同級生のありがたみを感じる機会が多数あるはずです。



令和4年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~

(所属・役職は執筆当時)

令和3年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~

(所属・役職は執筆当時)

令和2年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~

(所属・役職は執筆当時)

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