公立大学法人 福島県立医科大学 ダイバーシティ推進室


ロールモデル集

亀岡(色摩) 弥生 医療人育成・支援センター 医学教育部門 教授

亀岡先生

 私は2015年から、福島医大の医療人育成・支援センター 医学教育部門で仕事をしています。人が仕事をするのは、経済的自立、社会貢献、そして自己実現のためと言いますが、医学教育が自分のメインの仕事になろうとは異動するまで考えてもみませんでした。その前は薬理学講座、更にその前は輸血部(現・輸血移植免疫部)に在籍し、医学部卒業後に入局したのは第一内科(循環器+血液+消化器内科)でした。“なりたい未来の自分”に向けて努力を積み重ねて実現する人もいますが、私の場合は何度も思わぬ方向から転帰が訪れ、その都度別な景色を見てきました。シェリル・リンドバーグの「Lean In」で「キャリアは梯子ではなくジャングルジム」の言葉を見つけた時は膝を打ちました。

ジャングルジムのキャリア
 私が造血機構に興味を持ち血液専攻の大学院生として内科に入局したのは、骨髄移植が新しい治療法として日本に広まった時期でした。移植に対する期待と限界を目の当たりにし、人生の時間を治療よりも“何故”の解明に費やしたいと思い、大学院卒業後研究留学をしました。シアトルにある意中のラボではなく、結婚相手の留学先であったボストンにまず一緒に行きました。学位指導教員のMITに勤める知り合いから研究員を募集しているラボの電話番号を教えてもらい、電話をかけてアポをとり、自分の研究成果をプレゼンしながら相手のニーズを聞くjob interviewのため、4つの研究室をまわりました。複数の研究室を回ることにより研究のトレンド、研究体制、レベル、研究哲学の相場を知ることができ、結局Harvardの関連機関の一つDana-Farber Cancer Instituteにポスドクとして雇われ、欧米人ばかりの研究フロアでおよそ3年過ごしました。アジア人の私は10代にしか見えない上に、欧米人からみると大学出にしては拙い英会話力が災いして最初は毎週の研究報告会から外されました。状況打開のためには、理論武装をしてボスと大ボスに直談判して報告のチャンスを捻り出し、報告会で聴衆にアピールする必要がありました。しかし一度認められると手の平を返したように、与えられたテーマを蹴って自分が発案したプロジェクトをやりたいと言えば惜しみない協力が得られ、研究から政治や文化に至るまで毎日議論の輪に入り楽しめるようになりました。どんなに良い環境にあっても自分で扉をたたいて主張しなければ何も始まらないことを学びました。研究を続けたいとの思いを抱いて帰国して内科に戻って出産し半年経った頃、突然輸血部への出向を命じられました。その時は左遷に違いないと思ったのですが、本当は子育てしながらも研究をしたいという意思を尊重した教授の親心でした。輸血部は単に血液製剤を分配する部署ではなく、同種免疫の視点から病院全体の輸血や移植の危機管理を行う部署でした。全体を見渡してあらゆる危険を予測しシステマティックに手を打つやり方を、現在のOSCE運営に活かしています。また、同じ骨髄移植患者を血液内科医は造血という時間軸で、一方輸血学者は同種免疫の思考軸で診ることを知り、学問体系とは思考軸確立の歴史なのだということに、ここで気づきました。その後、大学のポスト数調整のために薬理学講座に移り、研究・教育業務の比重を増やし、准教授になった時に内科の外来業務を辞め、医学教育部門への移籍が決まるまで、基礎講座の教員として過ごしました。どの部署にも共通することは、若いうちは自分に与えられた業務をこなせばよいが、職位が上がるに従い自分の仕事の質を維持するのは当たり前、周囲の人を支援して組織全体を進化させる義務を負うようになるということです。一方、自分の問題意識や考えが施策に反映されやすくなり、“やり甲斐”が変質します。

キャリアの裏側
 人生は努力してもどうにもならないことに見舞われるものです。保育園に預けた娘は1歳の時風邪から肺炎となり入院しました。その後小学校に入るまで8回の入院を余儀なくされました。肺炎の闘病は入院期間前の肺炎が完成するまでの1週間と退院後日常生活に戻れるまでの2週間を合わせて少なくとも一月に及びます。夫は宮城県勤務で、そんな時に最も助けて欲しい親は加齢による心身不調のため頼れる状況ではありませんでした。子供の病気が治って出勤してもひっきりなしに親が職場に電話をかけてくるので、電話と電話の間のコマ切れの40分が実験に集中して現実逃避できる救いの時間でした。3歳になった娘が預け先でよくない扱いを受けていることを知り預けるのをやめる決断をした時には「やめたら(お母さんが)お仕事できないでしょ、だから行くよ」と娘に言われ、心底自分を呪いました。子供の病気で休みがちだった時の「ボク達の介護保険を払えるように育てるのが一番重要」との上司の言葉に救われ、女性の先輩達がそっと話してくれた経験談から誰もが何等かの“理不尽”に出くわしそれを乗り越えて生きていることを知り、ピンチの時に助けを求めれば応えてくれる同僚を頼り、今日まで何とかやってきました。
 ジャングルジムとは言え、未知の領域に足を踏み入れる時には大きな不安に襲われます。それでも、勇気をもって踏み出せばその経験が後の自分をつくります。そもそも人生は不公平で理不尽に満ちています。助けを求めることは恥ずかしいことではありませんし、助けられることによる気づきもあります。一度だけの人生、自ら扉を叩いて、悔いなく生きたいものです。



令和4年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~

(所属・役職は執筆当時)

令和3年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~

(所属・役職は執筆当時)

令和2年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~

(所属・役職は執筆当時)

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