菊地臣一 コラム「学長からの手紙  〜医師としてのマナー〜

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52.人は許せ、しかしその事実は決して忘れてはならない

人生は色々嫌な事、屈辱的な事、嬉しい事、そういった事が諸々交差して時が流れていきます。私自身を振り返ってみても、嬉しい事はすぐ忘れてしまいます。しかし、屈辱的な事、悲しかった事はいつまでも心に残ります。しかも過去は動きませんから、反って時と共に鮮明になっていきます。どうしてこのタイトルを持ち出したかというとその背景を話さなければ判らないと思います。

私は、以前にも話しした様に、この医局を自治会から除名を受け、追い出される様に去りました。その前後で本当に嫌な事が一杯ありました。その事が現在の私の医局運営を考える上での材料になっています。これから述べる事もその一つです。私はカナダから帰って来て何故かクリニックに参加させてもらえませんでした。参加してもクリニック単位でのカンファランスや会合には、私には声がかからないのです。私は自分でたまたま外来へ顔を出して知るまで、外されているとは気が付きませんでした。私はその時から大学を止めようと感じ始めました。

月日は流れて大学に講師として戻って来た時、まだその当時の人々の影響を受けた人が大学に残っていました。骨盤輪不安定症の装具を作ってもらう為に東京から装具屋さんに来てもらいました。私が呼んできたというその事だけで、その医局員は木で鼻を括った様な対応しました。採寸が終ってからその装具屋さんは「先生も大変ですね」と言いました。私は自分自身の面子が潰された事もありますが、全く関係の無い人まで巻き込んで私への面当てをする医局員のその心根を非常に屈辱に感じ、やはり昔の空気は尚残っている、医局全体に人を人とも思わない傍若無人な振る舞いが通る雰囲気が残っていると感じました。

さらに私が教授になってから、昔私を追い出すのに急先鋒であった先輩達が、それを忘れたかの様に私に親しげに声をかけ、交流を求めました。私もまた忘れたかの様にそれに応えて現在に至っています。しかし、一個の人間として何かを成すには自分の屈辱的な事や自分の人生観に照らしてどうしても納得出来なかった事に対する怒り或いはそれに対する反骨心は決して失ってはならないと思います。忘れるという事と許すという事は全く別な次元なのです。そういうものに対する怒りがその人間の飛躍のバネになるのです。これは良いとか悪いとかの問題ではなくて、人間はそういうものであるべきなのです。ですから私は以前から田中克己の詩を愛唱しています。その詩は「この道を泣きつつ 我の往きしこと我忘れなば誰か知るらむ」というものです。若い医局員諸君も屈辱的だった経験があったら、その人は許して、しかしその事実は忘れずに、良い意味でバネに変化させて大成して下さい。


       前事(ぜんじ)忘れざるは後事(こうじ)の師  
       〔前事不忘、後事之師〕
                                   (「戦国策」)                     

 

 

 

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