リレーエッセイ

3つの奇跡

附属病院事務部病院経営課 清野 貴裕

私が生きてきた40数年の間に、「3つの奇跡」があった。

まず、1つ目は、「大学合格」だ。

今から20数年前、浪人していた私は後がなかった。
いわゆるその当時の共通一次試験(今のセンター試験)がいまいちだった私は、2次試験に賭けるしかなかった。
国語、英語と順調だった。しかし、数学の1問だけが答えが出なかった。
こんな問題もあるのだろうと「解答なし」と書いた。今でも覚えている「3次関数」の問題だ。
長い浪人生活も終わり、あとは合格発表を待つばかりとなったある日、ふとその問題が解けたのだ。ケアレスミスだ!
やってしまった!!!
配点40点がパーとなった。もう終わったと思った。
合格発表の日、奇跡は起こった。・・・・・・・・・そして卒業後、私は県職員になった。

2つ目は、「ドクターヘリの運航」だ。

一生忘れもしない「平成20年1月28日」、私が医大病院に赴任したのが平成19年4月、県職員になって6カ所目の職場である。
しかし、運航開始まで10か月しかない。
しかも救命救急センターも同時に立ちあげだ。

<平成19年>
4月 赴任早々に打ち合わせの毎日、何が終わっていて何が終わっていないのか?
5月 結局、何も進んでいないことがわかりあせる。。。。
6月 今後のスケジュールが見えてくる、ほんとに間に合うのか?
7月 1か月で運航会社の選定を終える。
8月 無線設備が必要?なんだそれは?
9月 ヘリポート完成、いよいよ追い詰められてきた。
10月 消防機関への説明開始
11月 ドクターヘリ、医大へやってくる。
初めて間近で見るヘリに感動・・・・・・するところではない。
12月 無線設備工事開始、無線免許申請、許可が下りるのには数ヶ月かかるとのこと。
最悪、仮免許での運用も視野に入れる。
ドクターヘリ通信センターの場所が決まらない・・・・・・
<平成20年>
1月4日 ドクターヘリ通信センターの場所が決定、工事開始
7日 消防機関への2回目の説明会
14日 必要な備品が次々に納入されてくる。ヘリの内部も医療機器が入り始める。
22日 ドクターヘリ、報道機関に事前公開
25日 ドクターヘリ通信センター及び無線設備工事終了、通信機、PC、電話機の設定をする。
1月28日 ドクターヘリ運航開始、同日付で無線免許が下りる。

右:菊地病院長(当時)
右2番目:高地理事長(当時)
中央:佐藤県知事

まさに、奇跡の運航開始、二度とこんな神業?はできない。
これも県をはじめ、フライトドクターやフライトナース、運航会社の協力なしにはありえないことだ。

そして3つ目は「ドクターヘリによって救われる命」だ。

運航開始から1年4か月、300回以上のフライトをしているが、ドクターヘリでなければ助からなかった命がたくさんあると聞いている。
今まで、救命救急センターまで何時間もかかっていた場所でも、ヘリがあれば県内はほぼ片道45分で全域がカバーされる。こんな心強い「武器」はない。日々のスタッフの努力に頭が下がる思いだ。

4月7日 午後3時24分
患者さんを乗せ着陸するドクターヘリ

私はなるべくスタッフとの意思疎通を大事にしている。事務方として裏から支えたいという思いから、毎日必ずドクターヘリ通信センターに顔を出すようにしている。
なぜならそこには常にその日のスタッフが出入りしているからだ。

「いやー、昨日は風が強くてヘリが揺れて大変だったよ。」
「今日は会津方面は雪だから、フライトは厳しいですよね。」
「昨日ヘリで運ばれた患者さんの状態が落ち着いてきて安心しました。」
「今月の運航回数は何回でしたっけ?」

そんな会話をしていると、ドクターヘリホットラインの電話がなった。

「はい、ドクターヘリ通信センターです。
・・・はい、わかりました。 ・・・○○才男性 重機にはさまれている状態・・・了解しました。
ドクターヘリ、エンジンスタート!」

すぐさま、今まで穏やかな顔で話していたフライトナースが、ドクターズバックを持ってヘリポートに走っていく、その後をフライトドクターも全力疾走。。

「ランデブーポイントは、○○グランド、救急隊は○○分後に現着ですね。」
ヘリの運航担当者は、2つも3つも同時に電話をしている。

ここにまた救われる命がある。

私は、スタッフの邪魔にならないよう、そっと部屋を出た。

(次回は、岩手・宮城内陸地震にも出動した最もタフなフライトナース・佐藤めぐみさんです。)