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【論文の解説】昆虫のにおい受容体を用いたほ乳類脳神経細胞の新たな活動操作技術の開発と,その応用による嫌悪性記憶の想起を制御する脳神経回路の同定

生体機能研究部門の深堀助教、井口助教、小林和人教授らは神経細胞を賦活化する新しい手法を用いて嫌悪記憶の想起に関するノルアドレナリン神経伝達の役割を解明し、その成果をまとめた論文を2020年10月21日発行の国際神経科学専門誌「Journal of Neuroscience」で発表しました。

情動を伴う記憶は日常の記憶に比べ、長い間保持されます。特に震災の記憶のような負の情動を伴う記憶は突発的な記憶想起(フラッシュバック)が起こり、より負の情動を深めるといった悪循環に陥ることがあります。この症状は心的外傷後ストレス障害(PTSD)の特徴的な症状の一つですが、その神経基盤には不明な点が多く、症状のメカニズムの解明は重要な課題となっています。


今回、我々はショウジョウバエが持っている嗅物質受容体(IR84a受容体とIR8a受容体)を利用して、その受容体に作用する幾つかの化学物質(フェニル酢酸とフェニルアセトアルデヒド)を用いて、受容体の発現を誘導した培養細胞で活動性を変化させることに成功しました。

さらに、カテコールアミンの律速酵素であるチロシン水酸化酵素(TH)の遺伝子プロモーター領域の後ろにIR84a受容体とIR8a受容体の遺伝子を繋げた配列をもつトランスジェニックマウス(TH-IRsマウス)を作製し、両IR遺伝子が発現した細胞の活動性の変化を調べました。TH-IRsマウスでは青斑核や他のチロシン水酸化酵素を発現している細胞で両IR遺伝子が発現しています。TH-IRsマウスの脳スライスで青斑核にフェニル酢酸を注入すると神経活動の亢進が見られ、麻酔下のTH-IRsマウスでも神経活動の亢進が見られました。また覚醒下のTH-IRsマウスの青斑核にフェニル酢酸を投与すると扁桃体基底外側核でノルアドレナリン放出量が増加することも確認しました。

ノルアドレナリンは重要な神経伝達物質の一つで、中枢神経系では青斑核や孤束核と呼ばれる部位から神経線維が投射されます。青斑核は記憶、不安、睡眠、感覚情報処理、認知など様々な機能を担っていると考えられています。

味覚嫌悪付けによって味覚に対して強固な嫌悪記憶ができたTH-IRsマウスを用いて、記憶の想起に関して研究を行いました。この動物の口腔内に嫌いになった味溶液を灌流し、それを拒否する行動が現れるまでの潜時を測定したところ、TH-IRsマウスにフェニル酢酸を投与した群において潜時が短くなることが分かりました。この潜時の短縮は、同時にアドレナリン受容体の拮抗薬を扁桃体基底外側核に投与することによって元の潜時に戻ることも分かりました。遺伝子操作のされていない野生型の動物では潜時の短縮が起こらないため、フェニル酢酸の非選択的な効果である可能性は低いことが確認されました。

我々が開発した新手法の有効性を確かめるために、青斑核を賦活化する薬剤を用いて実験を行ったところ、同様の潜時短縮が見られました。

これらのことから、青斑核から扁桃体基底外側核に投射するノルアドレナリン作動性の神経投射が嫌悪記憶の想起に関与していることが明らかとなりました。今後、青斑核や扁桃体外側核の詳細な機能を検討していきたいと考えてます。また、本研究で取り組んだ新規化学遺伝学的手法を他の研究にも応用し、様々な疾患の神経基盤の探索などを行っていきたいと考えています。


本研究の成果から、負の記憶の想起に関する神経基盤の解明がPTSDに悩む人の一助になればと考えています。

 

原著;Enhanced Retrieval of Taste Associative Memory by Chemogenetic Activation of Locus Coeruleus Norepinephrine Neurons, Fukabori, R., Iguchi, Y., et al., Journal of Neuroscience, 40 (43) 8367-8385, 2020