福島お達者くらぶだより

 2020 10 1日発行 通算 97

 

 新型コロナウイルス感染症(Covid-19)が不安を広げています。東京の感染者数は峠を越えているのかもしれないけれど、このところ福島県ではいくつかのクラスターも発生して感染者が増えています。皆様もできるだけ三密を避け、手洗いを十分にして、予防を心がけていてください(アルコール消毒も効果があるけれど、石けんをつけての丁寧な手洗いが最も効果があり、外出したら手を洗うまでは顔を触らないようにしてください)。

 お達者くらぶに先日、神奈川の人からミーティングへの参加の問い合わせがありました。問い合わせてきたのは中学生の娘さんのお母さんで、ふだんなら「できれば娘さんも一緒に、ぜひどうぞ」と言うところです。しかし、県からの要請があるし、何とか苦労して使わせてもらっている会場の学習センターでは予防のためにいろいろな制約がある状況のため、東京とすぐ周囲の県からの参加は遠慮してもらいました。お達者くらぶに連絡をいただいた方、本当に申し訳ありません。

 福島お達者くらぶだよりの新しい号をお届けします。今回は摂食障害の専門家の論文について連続で掲載してきた記事の3回目、最終回です。

 

 

様々な問題からの回避について

 この福島お達者くらぶだよりでは、前々号、前号と2回続けて『こころの科学』という雑誌の209号(20201月)「摂食障害の生きづらさ」という特集号に出ていた「摂食障害の精神病理−歴史と現在」という論文(著者は高倉修先生と小牧元先生)を基にして、摂食障害のタイプの違いや、その対応法を考えるに当たっての病態の違いを考察してきました。

 その論文には、「やせ願望が強く、強迫的に摂食障害であり続けようとする」中核的な摂食障害の人たちは「現実の解決すべき種々の問題から回避して、自己の世界から出ようとしない」と指摘されています。その回避は「食べることや体重が増加することからの回避だけでなく、自分自身に向き合うことや現実世界、将来などすべてのことからの回避に及ぶことがある」のです。その人たちに対しては個々のケースについて「摂食障害の特徴を十分に理解した上で、その病態に即した早期の治療がきわめて重要である」とその論文では結論されています。(「 」内の文は上記の論文からの引用です。)

 それでは、早期の治療にはかかることができず、すでに様々な問題がこじれてどうにも手が付けられない、そんなふうに感じられるところまで摂食障害が長期化してしまった人たちはどうしたらいいでしょうか。この号ではそのことを考えてみたいのですが、まずは前号で残した「回避」の問題を掘り下げるところから始めたいと思います。

 

 その論文では具体例については書かれていませんが、私(香山)の経験を書いてみます。ある大学生(女性)ですが、高校時代に拒食となりましたが生命の危険になるほどでなく、頑張って勉強して、故郷から遠く離れた大学に入学しました。大学生になって1年間は比較的落ち着いていたし、2年目に入ると精神的にかなり苦しくなって拒食状態になったけれど、何とか授業に出て単位を取っていました。しかし、3年生になって特にきっかけなく過食に転じ、戻さない(戻せない?)ために太ってしまって、その姿を見られたくなくて授業に出ていけなくなることが多くなりました。そこで学生相談の心理士に勧められて受診してきました。

 当初は「なぜ食べてしまうのでしょう?」と尋ねても、「さあ〜」と明確な返事はありませんでした。それでも繰り返し受診してくる中で、ここまで育ってきた過程や家族関係を尋ねていくと、子ども時代からお母さんやお父さんにうまく受け止めてもらえてこなかったことが出てきました。

 摂食障害に陥ってしまっているのは、そのように家族の中で不安を抱えてしまった育ちが背景にあることを説明すると、自分の苦しさの由来を理解できて(心理学の講義で聴いたことがやっとつながったのです)、それは安心につながりました。それを理解することによって、母親とも穏やかに話すことができるようになりました。それまではその家族関係を見ることを回避していたのだと考えられ、それは親に嫌われることが怖かったのでしょう。故郷から遠い大学を選んだのも、その回避のためだったのだと考えられます。

 しかし過食は止まりません。それは(低学年の時には家族から離れた気安さがあったのだけれど)就職活動を始めなければならない時期になって、自分がこれからどう生きるのか、やっていけるのかという不安がでてきたからでしょう。何とかやりますと言っていますが、就職活動と卒業論文の研究・執筆を並行してやっていくのは困難と感じ、卒業延期か休学も考えています。

 

 このように、一つの問題が解決すると、それまでは隠されていた別の不安が表に出てきて、その問題も食べることで回避するしかないことが多いのです。そのために摂食障害は治らないと思われてしまうし、それどころか症状から見るとどんどん悪化していくと見えることもあります。人生にはいろんな問題が尽きないのですから。

 その大学生の場合、過食が止まらないのは、一つの問題が解決して、人生をどのように構築していくのか(自分にそれをやっていく力があるのか)という、よりレベルの高いストレスがかかったためであり、回復へのステップを一つ上がったと考えられます。自分は一生このまま治らないのではないかと絶望することではありません。たとえその症状としての過食はひどくなっているとしても、それは病気が悪くなっているのではなく、まちがいなく成長の道を進んでいたのだと考えます。

 過去の不安を回避している、あるいはそれにこだわっている限り解決は見えないけれど、未来の不安は進んでいくことで解決していけるからです。その日の不安・恐怖を回避するための過食をしながらでも、何とか進んでいけば未来は見えてきます。その過食は生き延びるための手段ですから。

 

 このような拒食や過食(過食嘔吐)をある精神科医は「摂食障害は人生の困難への一つの対処法である」と述べています。しかし、それは病的であると(薄々?)わかっている人たちも多いのに、このような対処法に頼らざるを得ないのはなぜでしょうか。

 頑強な摂食障害に苦しむ人たちは、育ってきた家族など養育環境の中で安心を得られず、あるいは安心を奪われてしまう経験をして、自己評価が低くなってしまっています。ふつうの人たちは少しうまくいかないことがあっても「まあ、いいか」あるいは「仕方ない、次に頑張ろう」と言えるのに、拒食・過食の人たちはどうしてもそれが言えず、完璧にできない自分が許せず、自分を褒めることができません。(それは摂食障害だけでなく、アルコール・薬物やギャンブルに依存してしまう人でも同じですが。)

 そうして崩れていくプライドを、神経性やせ症の人たちは美人とされるやせた体型で回復・維持しようとします。そのようにやせた身体を保つことで挫折体験を乗り越えようとするとともに、自分をコントロールできるという自信を獲得しようとする。それは病気であることで心配してもらえる(かまってもらえる)ことを求める気持ちなんかよりもずっと大きいと思われます。

 しかし、そのようにして獲得できるものは「かりそめの自分らしさ」、ちょっと揺さぶりが加わると崩れていく、けっして本当の命の強さになっていきません。それでは本当に力を得て、新たに健康な生き方を得ていくためにはどうすればよいのでしょうか。

 

 私がいつもその人たちに伝えようとしているのは、自分はここにいてよいと感じられる場所がある、ありのままの自分で受け入れてもらえると感じられる人間関係を持っているという、安心の経験を積み重ねていくことでしか回復していく道はない、ということです。いくら大きな経験でも、一回だけでは性格に染みついてしまった自己評価の低さに対抗できません。何度も何度も積み重ねていくことで、低い自己評価は(消えるわけではないけれど)カバーされていき、ふだんはそれを忘れている状態で過ごせるようになるのです。

 それには時間がかかりますから、一人では挫折してしまいます。だから、家族が苦しさの背景を理解してくれて関係がよくなり、援助者になってくれることが一番よいでしょう。そのためには、拒食や過食といった行動で自分の苦しさを伝えようとするのではなく、自分の心の内をきちんと言葉にして、率直に伝えていくことが必要です。

 その言葉は、しかし、家族を責めるような言葉になると、逆に拒否感を強くされてしまいます。だから言葉の使い方は少し難しく、その言葉にすることを助力してくれたり指導してくれる先輩や治療者に出会えればと思うのですが。

 そうしても、その言葉は家族といえども受け取ってもらえるとは限りません。受け取ってもらえるかどうかは、その家族がどのような人かによって決まるので、本人の責任ではありません。もし家族でもその言葉を受け取ってもらえない人だとわかれば、あきらめることが必要になります。娘にとって母親は特別の存在なので、あきらめることは難しいのですが、それでもあきらめるほかないこともあります。あきらめれば、それに代わる別の人との関係を作っていくことができます。

 そして次の段階として、自助グループなどでその言葉を素直に受け止めあえる仲間がいることを知って、自分が天涯孤独な人間ではないことを理解してほしい。さらには、その言葉にした自分の人生を受け取ってくれ、その人の言葉ももっと聴きたいと思う人に出会えればと思います。その人にすがりつくのではなく(それは共依存を起こして余計に苦しくします)、この人と並んで生きて行きたいと感じる人です。

 そのようにして、あきらめることなく安心の経験を積み重ねていくことで、言葉の通じる人の存在が信じられるようになることが大きな意味を持ちます。それは自分自身を信じられるようになることにつながるからです。そうやって少しずつ進んでいく中で、自分には未来があることがおぼろげながらでも感じられるようになれば、それは間違いなく回復への重要な一歩です。


 

福島お達者くらぶだより

 2020 10 1日発行 通算 97号(102日修正)

 

 新型コロナウイルス感染症(Covid-19)が不安を広げています。東京の感染者数は峠を越えているのかもしれないけれど、このところ福島県ではいくつかのクラスターも発生して感染者が増えています。皆様もできるだけ三密を避け、手洗いを十分にして、予防を心がけていてください(アルコール消毒も効果があるけれど、石けんをつけての丁寧な手洗いが最も効果があり、外出したら手を洗うまでは顔を触らないようにしてください)。

 お達者くらぶに先日、神奈川の人からミーティングへの参加の問い合わせがありました。問い合わせてきたのは中学生の娘さんのお母さんで、ふだんなら「できれば娘さんも一緒に、ぜひどうぞ」と言うところです。しかし、県からの要請があるし、何とか苦労して使わせてもらっている会場の学習センターでは予防のためにいろいろな制約がある状況のため、東京とすぐ周囲の県からの参加は遠慮してもらいました。お達者くらぶに連絡をいただいた方、本当に申し訳ありません。

 福島お達者くらぶだよりの新しい号をお届けします。今回は摂食障害の専門家の論文について連続で掲載してきた記事の3回目、最終回です。

 

 

様々な問題からの回避について

 この福島お達者くらぶだよりでは、前々号、前号と2回続けて『こころの科学』という雑誌の209号(20201月)「摂食障害の生きづらさ」という特集号に出ていた「摂食障害の精神病理−歴史と現在」という論文(著者は高倉修先生と小牧元先生)を基にして、摂食障害のタイプの違いや、その対応法を考えるに当たっての病態の違いを考察してきました。

 その論文には、「やせ願望が強く、強迫的に摂食障害であり続けようとする」中核的な摂食障害の人たちは「現実の解決すべき種々の問題から回避して、自己の世界から出ようとしない」と指摘されています。その回避は「食べることや体重が増加することからの回避だけでなく、自分自身に向き合うことや現実世界、将来などすべてのことからの回避に及ぶことがある」のです。その人たちに対しては個々のケースについて「摂食障害の特徴を十分に理解した上で、その病態に即した早期の治療がきわめて重要である」とその論文では結論されています。(「 」内の文は上記の論文からの引用です。)

 それでは、早期の治療にはかかることができず、すでに様々な問題がこじれてどうにも手が付けられない、そんなふうに感じられるところまで摂食障害が長期化してしまった人たちはどうしたらいいでしょうか。この号ではそのことを考えてみたいのですが、まずは前号で残した「回避」の問題を掘り下げるところから始めたいと思います。

 

 その論文では具体例については書かれていませんが、私(香山)の経験を書いてみます。ある大学生(女性)ですが、高校時代に拒食となりましたが生命の危険になるほどでなく、頑張って勉強して、故郷から遠く離れた大学に入学しました。大学生になって1年間は比較的落ち着いていたし、2年目に入ると精神的にかなり苦しくなって拒食状態になったけれど、何とか授業に出て単位を取っていました。しかし、3年生になって特にきっかけなく過食に転じ、戻さない(戻せない?)ために太ってしまって、その姿を見られたくなくて授業に出ていけなくなることが多くなりました。そこで学生相談の心理士に勧められて受診してきました。

 当初は「なぜ食べてしまうのでしょう?」と尋ねても、「さあ〜」と明確な返事はありませんでした。それでも繰り返し受診してくる中で、ここまで育ってきた過程や家族関係を尋ねていくと、話されたことから、摂食障害に陥ってしまっているのは、家族の中で不安を抱えてしまった育ちが背景にあると考えられました。今の苦しさがその家族に起因することを説明すると、自分の苦しさの由来を理解できて(心理学の講義で聴いたことがやっとつながったのです)、それは安心につながり、母親と衝突せずに話すことができるようになりました。それまではその家族関係を見ることを回避していたのだと考えられ、それは親に嫌われることが怖かったのでしょう。故郷から遠い大学を選んだのも、その回避のためだったのだと考えられます。

 しかし過食は止まりません。それは(低学年の時には家族から離れた気安さがあったのだけれど)就職活動を始めなければならない時期になって、自分がこれからどう生きるのか、やっていけるのかという不安がでてきたからでしょう。何とかやりますと言っていますが、就職活動と卒業論文の研究・執筆を並行してやっていくのは困難と感じ、卒業延期か休学も考えています。

 

 このように、一つの問題が解決すると、それまでは隠されていた別の不安が表に出てきて、その問題も食べることで回避するしかないことが多いのです。そのために摂食障害は治らないと思われてしまうし、それどころか症状から見るとどんどん悪化していくと見えることもあります。人生にはいろんな問題が尽きないのですから。

 その大学生の場合、過食が止まらないのは、一つの問題が解決して、人生をどのように構築していくのか(自分にそれをやっていく力があるのか)という、よりレベルの高いストレスがかかったためであり、回復へのステップを一つ上がったと考えられます。自分は一生このまま治らないのではないかと絶望することではありません。たとえその症状としての過食はひどくなっているとしても、それは病気が悪くなっているのではなく、まちがいなく成長の道を進んでいたのだと考えます。

 過去の不安を回避している、あるいはそれにこだわっている限り解決は見えないけれど、未来の不安は進んでいくことで解決していけるからです。その日の不安・恐怖を回避するための過食をしながらでも、何とか進んでいけば未来は見えてきます。その過食は生き延びるための手段ですから。

 

 このような拒食や過食(過食嘔吐)をある精神科医は「摂食障害は人生の困難への一つの対処法である」と述べています。しかし、それは病的であると(薄々?)わかっている人たちも多いのに、このような対処法に頼らざるを得ないのはなぜでしょうか。

 頑強な摂食障害に苦しむ人たちは、育ってきた家族など養育環境の中で安心を得られず、あるいは安心を奪われてしまう経験をして、自己評価が低くなってしまっています。ふつうの人たちは少しうまくいかないことがあっても「まあ、いいか」あるいは「仕方ない、次に頑張ろう」と言えるのに、拒食・過食の人たちはどうしてもそれが言えず、完璧にできない自分が許せず、自分を褒めることができません。(それは摂食障害だけでなく、アルコール・薬物やギャンブルに依存してしまう人でも同じですが。)

 そうして崩れていくプライドを、神経性やせ症の人たちは美人とされるやせた体型で回復・維持しようとします。そのようにやせた身体を保つことで挫折体験を乗り越えようとするとともに、自分をコントロールできるという自信を獲得しようとする。それは病気であることで心配してもらえる(かまってもらえる)ことを求める気持ちなんかよりもずっと大きいと思われます。

 しかし、そのようにして獲得できるものは「かりそめの自分らしさ」、ちょっと揺さぶりが加わると崩れていく、けっして本当の命の強さになっていきません。それでは本当に力を得て、新たに健康な生き方を得ていくためにはどうすればよいのでしょうか。

 

 私がいつもその人たちに伝えようとしているのは、自分はここにいてよいと感じられる場所がある、ありのままの自分で受け入れてもらえると感じられる人間関係を持っているという、安心の経験を積み重ねていくことでしか回復していく道はない、ということです。いくら大きな経験でも、一回だけでは性格に染みついてしまった自己評価の低さに対抗できません。何度も何度も積み重ねていくことで、低い自己評価は(消えるわけではないけれど)カバーされていき、ふだんはそれを忘れている状態で過ごせるようになるのです。

 それには時間がかかりますから、一人では挫折してしまいます。だから、家族が苦しさの背景を理解してくれて関係がよくなり、援助者になってくれることが一番よいでしょう。そのためには、拒食や過食といった行動で自分の苦しさを伝えようとするのではなく、自分の心の内をきちんと言葉にして、率直に伝えていくことが必要です。

 その言葉は、しかし、家族を責めるような言葉になると、逆に拒否感を強くされてしまいます。だから言葉の使い方は少し難しく、その言葉にすることを助力してくれたり指導してくれる先輩や治療者に出会えればと思うのですが。

 そうしても、その言葉は家族といえども受け取ってもらえるとは限りません。受け取ってもらえるかどうかは、その家族がどのような人かによって決まるので、本人の責任ではありません。もし家族でもその言葉を受け取ってもらえない人だとわかれば、あきらめることが必要になります。娘にとって母親は特別の存在なので、あきらめることは難しいのですが、それでもあきらめるほかないこともあります。あきらめれば、それに代わる別の人との関係を作っていくことができます。

 そして次の段階として、自助グループなどでその言葉を素直に受け止めあえる仲間がいることを知って、自分が天涯孤独な人間ではないことを理解してほしい。さらには、その言葉にした自分の人生を受け取ってくれ、その人の言葉ももっと聴きたいと思う人に出会えればと思います。その人にすがりつくのではなく(それは共依存を起こして余計に苦しくします)、この人と並んで生きて行きたいと感じる人です。

 そのようにして、あきらめることなく安心の経験を積み重ねていくことで、言葉の通じる人の存在が信じられるようになることが大きな意味を持ちます。それは自分自身を信じられるようになることにつながるからです。そうやって少しずつ進んでいく中で、自分には未来があることがおぼろげながらでも感じられるようになれば、それは間違いなく回復への重要な一歩です。