FUKUSHIMAいのちの最前線
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第3章放射能との闘いFUKUSHIMA いのちの最前線269讀賣新聞「原発と福島」掲載地元医大の使命 福島県唯一の医大である県立医大は、原発事故を受けて放射線医療の拠点となった。約200万人に上る全県民対象の健康調査も担う。「原発と福島」第8部は、医大の医師や学生らの奮闘と葛藤を描く。 昨年3月11日、東日本大震災が発生すると、福島市郊外にある福島県立医大附属病院には次々、救急患者が搬送されてきた。津波で骨折したり、肺炎、低体温症などを発症したりしていた。病棟に収容しきれず、廊下や教室の床にマットレスを敷き詰めて寝かせた。3日間に搬送されてきた患者は168人。救急科の医師約10人、看護師約50人のほか、別の科の医師らも加わり治療にあたった。 不眠不休だった救命救急センター助教の長谷川有史(44)は14日昼頃、事務室で休息をとっていた。その時、ラジオが、東京電力福島第一原発3号機が、12日の1号機に続き水素爆発したと伝えた。 すぐに病院スタッフが駆け込んで来た。「被ひ曝ばく患者を受け入れることになりました」。長谷川は「被曝医療なんて誰もやったことないぞ」と思わず叫んだ。だが、患者を乗せたヘリはすでに第一原発を飛び立ち、県立医大に向かっていた。* 長谷川は被曝患者の対応マニュアルを手にして、防護服を着て、放射線科の医師と除染棟に診療機材を運んだ。除染棟は、茨城県で起きたJCO臨界事故を受け2001年に開設されたが、使われたことがなかった。 ヘリで搬送されてきた患者は被曝量が少なく、治療は無事に終わった。だが、翌15日朝には4号機からも爆発音が響き、原発構内にいた男性3人を受け入れた。 その直後、長谷川は病院スタッフからの報告に耳を疑った。「応援で来ていた災害派遣医療チーム(DMAT)がこの病院から撤収し、医大のドクターヘリも運航委託先の指示で運航を取りやめたそうです」。放射線防護の装備が十分でないことが理由だった。「俺たちは取り残されてしまった」 午後に到着した長崎・広島両大の合同の緊急被曝医療専門チーム(REMAT)のメンバーの言葉は、さらに衝撃的だった。「4号機の大損傷が今夜にも起こるかもしれない。重症の被曝患者が多数発生する恐れがある。最悪の場合、この病院も避難区域に入り孤立する」 天を仰ぐ医師、座り込む看護師、その場から駆け出す職員。長谷川は家族の顔が浮かび涙が止まらなかった。逃げ出したかったが「医師として廃人になる」と思いとどまった。* 長谷川は、みぞれが降りしきるその日の深夜、震災後初めて家に帰った。家族に会うのが最後になる被曝医療 突然の最前線2012年6月22日(金)掲載福島県立医大附属病院でスタッフと打ち合わせをする長谷川医師(14日)=中嶋基樹撮影

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