FUKUSHIMAいのちの最前線
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第2章福島医大関係者行動記録〈手記とメッセージ〉FUKUSHIMA いのちの最前線93福島県耳鼻咽喉科會誌 第22号 2011年(日耳鼻福島県地方部会・福島県耳鼻咽喉科医会)掲載福島県立医科大学耳鼻咽喉科 多田 靖宏大震災を経験して 平成23年3月11日14時46分に、三陸沖の深さ約24㎞でマグニチュード9.0の海溝型地震はおきた。福島県は中通りと浜通りが震度6強で、会津は6弱を観測した。私はその時、塙厚生病院の外来中で、耳処置の患者さんを診察中であった。初めにグラグラっときて、「地震ですね、一旦診察を止めましょう」とその患者さんと会話し診察室から患者さんと共に出て病院玄関で様子をみた。すぐにおさまったので診察室に戻り診療を再開した途端に“ヴィンヴィン………”と携帯から聞き慣れない音がして、見に行くと“岩手県沖で強い地震が発生しました。津波に注意してください”と緊急地震速報が届いており、それを読んだ数秒後に、グラグラグラっと先ほどとは比べものにならないほど大きな揺れがきた。建物の中にいては危険と感じ、外来の看護師さんと診察を待っていた患者さん達を病院建物の外まで誘導した。みんな“これはやばい!死んじゃうかも”って思うほどで、実際の揺れは5-6分程度であったが、その時は10分以上揺れていたように感じた。その後、停電がおき、余震が続く中、病棟の患者さんも全員1階ロビーに待避させ、安全確認を行った。当然のごとく外来診療は中止となり、この時点で教室員の谷先生からメールが届き、医局がグチャグチャになっていること、病棟の患者さんは全員無事であることは報告を受けた。そこで、医局長という立場上大学に戻ることを決意した。この時で16時30分位だった。 大学への帰り道は、高速道路が通行止めとなっていたために下道を通るしかなく、さらには4号線が渋滞していたために裏道を駆使することとなった。しかし、道は大きくうねり、マンホールの突出や亀裂や段差が至る所に存在し、周囲の民家の塀は崩れ、古い家は倒壊していた。道中のTVで福島原発に問題が生じていることを知ったが、この時はまだ正確な情報がなく、その後これほどの大事になるとは考えていなかった。結果的に大学に着いたのは20時30分過ぎくらいであった。医局員のほとんどはまだ医局におり、当日外勤の教室員とも連絡が取れたことを聞きとりあえずは安心した。医局内は本当に足の踏み場もない状態で、助講室も惨たんたる状況であったが、窓際の小川先生は既に周囲をかたずけて自分の机に向かっていたのには驚いた。 大学では、地震発生直後には緊急災害対策本部が設置され、大森教授も副病院長として参加していた。トリアージを開始し、震災(原発災害)の被災者収容の準備が開始された。翌日の12日(土)は病棟カンファレンスルームに8時に教室員全員が集合し各家庭の被害状況を確認した。この日からしばらくの間は9時と15時と21時の一日3回緊急院内全体会議が連日招集され、トリアージの状況や災害派遣医療チーム(DMAT)について、断水などのライフラインについて、節水や入院患者の退院状況など、様々震災当日の医局の様子

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