FUKUSHIMAいのちの最前線
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第4章患者救済に奔走した活動記録〈論文・研究発表〉FUKUSHIMA いのちの最前線427数は260ケージ(処分率16.8%)であり、ラットの処分ケージ数は50ケージ(処分率14.7%)であった(表2)。これらの処分は、ほとんどが飼育期限の超過した不要動物であったことから、実験者にとって実験・研究上の実害はなかった。 東京電力福島第一原子力発電所(以下「福島第一原発」と略)では、地震と津波により非常用を含むすべての電源が破綻し、原子炉内と使用済み核燃料プールの水位維持が危機的困難な状況となった。政府は3月11日夜、原子力災害対策特別措置法に基づく「原子力緊急事態宣言」を発令し、半径3㎞以内の住民に対して避難指示をだした。翌12日午後3時36分ごろ、福島第一原発1号機の原子炉建屋が爆発し、同原発の周辺から放射性セシウムか検出されたとの報道があった。官房長官の記者会見では「炉心の水が足りなくなったことにより発生した水蒸気が格納容器の外側、建屋との間にでて水素となり、酸素と合わさり爆発した」と説明していた。しかしながら、実際には原発事故は収束に手間取り、国際的にも注目される最悪の状態であった。 放射性物質は福島県のみならず、東北や関東地方におよぶ広い地域に拡散し、長期間にわたる“低線量被曝”問題を引き起こすこととなった。福島第一原発から北西に57㎞離れた福島医大においても外気放射線量は事故直後に平時の9.2倍に上昇していた(Nalシンチレーションカウンターによる4時間ごとの測定)。3か月経過時点で事故前の1.3倍程度であった。 原発事故の翌日から病院業務に関係する教員をのぞく全教員が交替で学内各所における放射線量の測定、ならびに附属病院来院者の放射能汚染状況把握のためのサーベイランスに従事することとなった。動物施設の教員は実験動物の維持管理に専念するため、放射線量の測定担当からは除外された。これらについても前述した全学全職種ミーティング(学内代表者会議)において了解された。外気放射線量の測定結果は後日、大学のホームページにも掲載、公表された。 附属病院には自衛隊の放射能除染チームが常駐し、自衛隊による原発事故現場からの被曝や受傷患者の搬送訓練が行われ、グラウンドには大型ヘリコプターが頻回に離着陸をくり返した(写真14)。 3か月経過時点でも、事故前の約3倍の測定値であることが確認されている。このような状況下での動物施設内における飼育作業者や実験者の安全性を確認するために、4月21日と5月9日の2回、飼育室等の放射線量の測定を行った。 GMサーベイメータ(ALOKA製TGS-136型)を用いて各飼育室等における空調吹出部、排気部、中央作業台上の3か所の放射線量を測定した。 測定の結果、すべての飼育室や実験室において空調の吹き出し部が最も高い値を示し、測定日が遅いほど高値を示す傾向が認められた。排気部と作業台上の放射線量はサーベイメータのバックグラウンド値とほぼ同じレベルであり、測定日による差は観察されなかった。すなわち、飼育室内中央部の作業台の放射腺の測定値は施設周囲の外気の1/4~1/5程度であった。プレフィルターのみの飼育室の吹き出し部が最も高い値を示し、続いて中性能フィルター、HEPAフィルターの順に低下していた。測定日の数日前にフィルターの交換を行った部屋の吹き出し部では、バックグラウンド値と変わらない値であった。このような結果は、塵じん埃あいに付着した放射性物質がフィルターにトラップされていることを示唆するものと考えている。おそらく、フィルター部に放射性物質が蓄積されていると思われる。 今回の地震では、本震発生から30日後までの余震の積算回数は異常に多く、400回を超えている。余震の際には、遠方から不気味な地鳴りが次第に近づいてくるのが体感できた。 1993年の昭和三陸地震(M8.1)や2003年の十勝沖地震(M8.0)での余震は50回弱、1994年の北海道東方沖地震(M8.2)では100回程度と記録されている。マグニチュード9.1のスマトラ島沖地震の際には、福島第一原発から57㎞空調フィルター部分に放射性物質?写真14 被曝患者緊急搬送訓練(福島医大グラウンド)。備えあれば憂うれいなしさらなる対策で次に備える

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