FUKUSHIMAいのちの最前線
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第4章患者救済に奔走した活動記録〈論文・研究発表〉FUKUSHIMA いのちの最前線385福島県立医科大学附属病院 病院長 村川 雅洋東日本大震災・福島第一原発事故と福島県立医科大学 まず、東日本大震災とそれに引き続く東京電力福島第一原子力発電所の事故により、お亡くなりになった方々の御冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆様、そして避難生活を余儀なくされている皆様に心からお見舞いを申し上げます。 2011年3月11日(金曜日)の14時46分に発生した東日本大震災の最大震度は宮城県栗原市の震度7で、当院がある福島市では震度5強を記録した。以前同様の震度を記録した阪神淡路大震災、新潟県中越地震、新潟県中越沖地震の発生曜日、時間はそれぞれ火曜日午前5時46分、土曜日午後5時56分、祝日月曜日午前10時13分であり、いずれも通常の診療時間帯ではなかった。今回の地震は、初めて通常診療時間帯に発生した震災であった。 当院における当日の外来患者は1345名、入院患者は642名であった。病院は耐震設計されており倒壊等の大きな損傷はなかった。地震発生後、入院・外来患者並びに職員の安全確保を行うとともに、直ちに災害対策本部を設置して、被災者の受け入れ態勢を整備し、特に重症患者への対応を行った。これには、全国から35チームのDMAT約180名、ドクターヘリ9機が集結して支援していただいた。ただ、以後3日間で当院に搬送された救急患者は168名で重症患者は少なかった。地震そのものよりも津波による被害が大きかったためと考えられる。その後、本院の施設・設備には重大な損壊はなかったが、断水と流通物資の不足により、一般外来診療や手術・透析の制限などを余儀なくされ、通常機能を回復するまでには、およそ三週間を要した。この間、原発事故による被ばく・負傷作業員らの除染・治療、避難地域に指定された病院等からの転院患者約200名の受け入れと域外搬送、避難住民約500名の放射性物質汚染スクリーニングも行った。さらに県内の避難所を隈無く巡回して、避難住民の一般診療、保健指導のみならず、小児科診療や感染制御、超音波診断装置を駆使した深部静脈血栓症や心疾患のスクリーニング、眼科・耳鼻咽喉科診療、心のケアなど、専門的な医療の提供も継続して行っている。これらの巡回には、計画的避難区域に当たる第一原発から30㎞圏内の緊急時避難準備地域も含まれているが、ここにも全国から様々な形で支援をいただいた。 このように、県内唯一の医科大学附属病院、二次被ばく医療施設としての役割をある程度果たせたと自負しているが、DMATをはじめ、長崎大学、広島大学など全国の大学、学会、自治体等の関係者の方々、消防、自衛隊の方々のご助力と、不安と闘いながら一丸となって使命感に燃えて昼夜を分かたずに働いていただいた大学・病院の全教職員、学生の努力の賜物である。この場を借りて、皆様に深く感謝申し上げます。 原発事故は収束に向かいつつあるとはいえ長期的な管理体制が必要であり、規模は小さくなったとはいえ余震も頻繁に続いている。避難区域も徐々に解除されているが、環境汚染の解決や住民生活の基盤となる医療の復元は容易ではない。今後も原発作業員、避難住民のみならず、県民全体の健康管理を含め、地域医療の再構築を成し遂げ、安心して暮らせる福島を取り戻す使命がわれわれに課せられている。この新たな使命に向かって、医療人としての誇りを持って歩を進めていきたい。日本蘇生学会 第30回大会 会長講演 蘇生 vol.30 no.3 2011掲載

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