FUKUSHIMAいのちの最前線
384/608

378 2011年3月11日14時46分に発生した大地震、津波、原発事故において、日本耳鼻咽喉科学会福島県地方部会の会員には不幸中の幸いで人的被害はありませんでした。2004年12月26日にインドネシアで起こった大地震と津波の映像をみて、自然の脅威と生命の大切さを心に刻んでおりましたが、今回の現実を目の当たりにして再び深い悲しみを感じるとともに、大震災の体験を広く共有する必要があると考えています。災害発生時の超急性期、数日から2週間の急性期においては、耳鼻咽喉科医というより医師としての役割を求められます。救急医療対応が落ち着いてきて、亜急性期から慢性期に入ってくると、専門診療科の医師としての役割が求められます。 発生後ただちに災害対策本部(災害医療対策部)を設置し、ここに情報を集中し指示を出していく体制を作りました。テレビや直通の固定電話が無かったのですぐに設置しました。 まず患者、職員、学生に人的被害は無く、 物的被害も軽微で、緊急停止したエレベーターには閉じ込めの無いことを確認しました。手術中の患者は中断できるところで終了を指示しました。 15時46分、全館放送にて、人的被害がないこと、大きな物的被害はないこと、トリアージの場所を伝えました。21時30分と夜中の0時に、各部署の責任者を集めた全体ミーティングを行いました。ここで1次、2次、3次救急体制を決定し、耳鼻咽喉科・頭頸部外科は2次救急を受け持ちました。本院は災害拠点病院であり、全国からDMAT(Disaster Medical Assis-tance Team)35チーム、約180名が集結してきましたが、数日して岩手県や宮城県に移動しました。救急対応は3日間で緑93名、黄44名、赤30名、黒1名の合計168名でした。緑は軽傷、黄色は中等症、赤は重症、黒は亡くなった方です。多くは浜通り(福島県の東海岸沿いの地域)からの患者さんでした。 水道の供給が止まり、病院機能、特に透析、生化学検査、滅菌洗浄、患者食調理、トイレ、手洗いに大きな支障がでました。 1週間はおにぎりとカップラーメンと缶詰とペットボトルのお茶などで過ごしました。町のスーパーやコンビニから商品が消えました。病院では食料品や薬品が底をつきそうになり、知人や友人を介して物資を分けていただき、風評被害でトラックが福島県に入りたくない時期に持ってきていただきました。患者食は備蓄してあった食材でほぼ通常の食事を提供することができました。3月18日(金)に上水道が開通し、ライフラインは全復旧となりました。復旧があと3日遅かったら病院機能は停止しお手上げの状態であったでしょう。前線から一歩も引かずになんとか持ちこたえることができました。 3週間はガソリンもなく職員の通勤が難しくなってきましたが、ガソリンの供給が震災前の状態になり、通常の生活に戻りました。病院は3月28日(月)から通常外来を開始し、4月中旬にはほとんど元通りの診療ができるようになりました。大学の入学式は5月6日に挙行しました。東北新幹線が4月末には再開通しました。 原発の水素爆発により浜通りから避難する入院患者が大幅に増え、自衛隊の救急車やヘリコプター、全国の自治体の救急車、バスなどで、次々と送られてきました。外来玄関待合スペースや看護学部にベッドを並べておいて、収容していきました。電話が通じないので情報が錯綜し、到着が真夜中になることも早朝になることもありました。14病院の搬送日本耳鼻咽喉科学会会報115巻4号〈平成24年4月20日発行〉予稿集掲載福島県立医科大学耳鼻咽喉科学講座 大森 孝一地震・津波・原発事故災害への対応1.はじめに2.初動体制と救急医療3.ライフライン4.原発事故対応

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です