FUKUSHIMAいのちの最前線
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第4章患者救済に奔走した活動記録〈論文・研究発表〉FUKUSHIMA いのちの最前線373ました。21時30分から病院の各部署の責任者に集まってもらい全体ミーティングを開きました。日付が変わって午前0時から2回目の全体ミーティングを開きました。1次、2次、3次救急体制、トリアージの場所と担当科を確認し、翌週の一般外来を閉じること、予定手術を止めること、日曜日の予定入院を止めることとしました。 災害拠点病院である本院に、全国からDMAT(Di­saster Medical Assistance Team)35チーム、約180名が集結して救急医療に対応し、数日して岩手県や宮城県に移動しました。2.翌日〜2週間 救急患者は3日間で緑93名、黄44名、赤30名、黒1名の合計168名でした。なお、緑は軽症、黄色は中等症、赤は重症、黒は亡くなった方です。多くは浜通り(福島県の東海岸沿いの地域をこう呼びます)からの患者さんでした。 水の供給が止まると、病院機能、特に透析、生化学検査、滅菌洗浄、患者食調理、トイレ、手洗いに大きな支障が出ました。透析患者が喫緊の問題となり、救急車やバスで他県の施設に移送しました。水無しで使える血液ろ過用補充液サブラットなど、緊急医薬品の必要性を痛感しました。 原発の水素爆発により、浜通りから多くの避難者が発生しました。浜通りの入院患者は自衛隊の救急車やヘリコプター、全国の自治体からの応援の救急車、バスなどで次々と送られてきました。電話が通じないので情報が錯綜し混乱しました。本院では外来玄関待合スペースや看護学部にベッドを並べて置いて、到着した時点で収容していきました。真夜中になることも早朝になることもありました。いわき市や相双地区の14病院からの搬送者は約1300名あり、搬送中継トリアージ対象者は175名、うち入院は125名でした。 原発からの放射性物質飛散により、約500名の放射線サーベイを行いました。本院は原子力災害第二次緊急医療専門施設であり、除染施設や体内被ばく線量等の検査設備を有しています。ただ、設備は一つしかないので、自衛隊の除染車やタンク車が常駐していました。さらに、広島大学や長崎大学からREMAT(Radiation Emergency Medical Assis‐tance Team)など、多数の放射線専門家が応援に来られました。 地震発生から1週間はおにぎり、カップラーメン、缶詰めとペットボトルのお茶などで過ごしました。町のスーパーやコンビニから商品が消えました。病院では食料品や薬品が底をつきそうになり、知人や友人を介して物資を分けていただくことができ、風評被害でトラックが福島県に入りたがらない時期に持ってきていただきました。患者食は備蓄してあった食材で、ほぼ通常の食事を提供することができました。3月18日(金)に上水道が開通し、ライフラインは全復旧となりました。復旧があと3日遅かったら病院機能は停止し、お手上げの状態だったでしょう。前線から一歩も引かずに何とか持ちこたえることができました。3.3週目〜2ヵ月 本学では避難住民への医療支援として、エコノ地震被災者への救急医療と浜通りからの避難患者の搬送・入院

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