FUKUSHIMAいのちの最前線
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354東日本大震災特別報告(福島発)―悲劇から奇跡へ2迷惑をおかけした。誌面をお借りして,改めてお礼申し上げたい。もちろん発災直後から,当該医療機関では,独歩可能,あるいは比較的状態のよい患者は,独自のルートや,県災害対策本部との協力の下で,県内の比較的被害が少ない地域の医療機関へ搬送を行っていた。当計画での対象者の大半は,高齢かつ,そもそも搬送そのものを躊躇するような状態の患者であった。このため,搬送不可能な患者は,経路途中に存在する本学附属病院へいったん収容し,後日再搬送を行った。一連の搬送計画においては,搬送対象者名簿がきわめて重要な情報である。この名簿の作成を,当該医療機関では一晩で完成させなければならなかった。震災・津波被害のため緊急入院となった患者の中には,患者および家族情報が不十分(氏名が不明のままの方,保険情報がないままの方が少なからずいた)なまま搬送に臨まざるを得ない事例もあった。しかし,現地の役場機能が崩壊していた当時の状況を顧みると,やむを得ないと思われる。2.避難所への医療支援と情報 それらの,「広域医療搬送ミッション」が一段落した後は,避難所への医療支援の調整作業が始まり,県保健福祉部,県および郡市医師会の医師と共同で行った。県内各地に設置された避難所の多くでは,発災直後から,主に郡市医師会の医師たちが医療支援を行っていた。そのため,まず郡市医師会に現地情報を求め,現況把握に努めるとともに県医師会との連絡も密にし,派遣申し出のあるJMATを始めとした医療チームの差配に関する情報共有を行っていった。ここでも,情報の不足,途絶により作業が難航した。原因の1つに,避難所の設置主体の問題がある。すなわち,設置主体が県であったり,市町村であったり,また担当部署が市町村によって異なったりで,情報の収集が困難な状況であった。相互不信などの憤りを感じつつ現地に出向くと,庁舎自体が被災し,その中で文字通り不眠不休の活動をしている担当者が対応してくれた。事情もわからず,苛立っていた自分が恥ずかしくなったことを鮮明に覚えている。情報はもちろんであるが,役場そのものの物理的堅牢性も大切であることを痛感した。郡市医師会,県医師会,県庁を結ぶ,災害時にも十分に機能する堅牢性を持った情報伝達システムの構築が必要であろう。�(福島俊彦) 福島第一原発から4.2㎞の県立大野病院と,3.3㎞のJA福島厚生連が運営する双葉厚生病院は昨年4月,統合を控えていた(図2)。新病院は双葉郡内の3割以上に当たる370床,常勤医師25人を抱える中核病院として,福島県2機目の多目的ヘリを完備する二次救急医療の拠点となるはずであった。 <2011年3月11日・双葉厚生病院> 地面のコンクリートにひびが入り,貯水槽が破裂し,ガスのにおいが充満し始めた。病棟へ向かうが3階の渡り廊下が崩落していた。病棟に駆け上がると物品が散乱していたが,幸い人的被害はなかった。スタッフ一丸となり,車椅子,ストレッチャーあるいはマットレスに乗せた患者たちを慎重かつ迅速に非常階段から降ろした。外気は冷たく,待合いスペースのベンチを2つ合わせて簡易ベッドとし,担送患者たちに布団や毛布をかけた。その矢先,津波警報が鳴り,数メートルの津波が押し寄せてくるとの情報が入った。100名以上の患者を収容するスペース相双地区勤務医として図2 病院の位置と退避患者への対応

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