FUKUSHIMAいのちの最前線
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第4章患者救済に奔走した活動記録〈論文・研究発表〉FUKUSHIMA いのちの最前線349 災害発生直後の超急性期は,地震・津波による傷病者対応に当たった。外来休止,定期手術休止により,県内医療最後の砦として全面的な三次救急体制を構築した。この時期から,全国より多くのDMAT(Disaster Medical Assistance Team)あるいはJMAT(Japan Medical Assosiation Team)に参集いただき,全県的に活動いただいた。 本学の救急科スタッフの多くが,県全体の災害対策や現地での初期治療で忙殺されるなか,各科をローテーションしていた初期研修医は一時的に救急科所属となり,3つのグループに分かれて8時間交替で救急初期診療に当たった。 続いて起こった原発事故による避難指示期には,避難命令による入院患者・要介護者の後方避難中継任務に当たった。避難指示区域内の病院・介護施設から昼夜を徹して緊急搬送された多数の要介護者を一時保護し,緊急入院を要する患者以外は後方病院に転送した。緊急時利用可能スペースと看護学部教員という緊急時の看護力を有する人材を抱え,あらゆる疾患に対応する総合医療リソースを有し,県内各病院とも連携をもつ大学病院ならではの「緊急時広域医療搬送ハブ機能」ということができる。この際,地震発生時に病院実習を行っていた医学部5年生を中心に,有志によるボランティア組織が結成され,多いときには1日約60人の学生が集まり,圏外搬送においては大きな力となった。 一方,本学で抱えた問題は複雑であった。地震発生直後からの多くの建造物倒壊と断水は病院機能の多くを停止させ,附属病院は,貯水タンク内残存水を用いた縮小医療を余儀なくされることになった。血液検査,手術着・手術器具の洗浄を行うにも多量の水を必要とするのは読者もご存知であろう。さらに,入院患者の給食供給さえも困難であった。またガソリンの枯渇,崖崩れなどによる主要アクセスの寸断は,患者搬送のみならず職員の通勤にも支障をきたした。通常の医療すらままならぬ状況の中で福島第一原発の事故が発生したのであり,福島県民は,地震・津波・原発事故のまさに三重苦を背負ったわけである。 同時に,徐々に明らかになる原発事故に対応するため,救急医と放射線科医が自然発生的に被ばく医療チームを形成して対応に当たった。3月14日に最初の水素爆発による外傷患者が搬送された。幸い,汚染は軽度で除染可能であった。翌15日には3人の傷病者が原発サイト内から搬送された。そのころ院内では,相次ぐ被ばく傷病者の緊急搬送,進行する原発事故と情報不足,地震・津波による病院機能の低下と疲労から,多くの職員が原発事故の不安におびえ,核という得体の知れない物質に漠然とした恐怖を感じ始めていた。緊急被ばく医療に関するマニュアルは存在していたものの,周知されてはいなかった。 被ばく医療班の立ち上げは,学外専門家からの適切なリスクコミュニケーションに大きく依存した。15日午後に,被ばく医療の専門集団である長崎・広島大学合同REMAT(Radiation Emergency Medi­cal Assistant Team)が加わり,初めて原発の現状について科学的考察に基づいた現状説明を受けた。院内の状況全国から救援にかけつけていただいた救急車

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