FUKUSHIMAいのちの最前線
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306 2011年3月11日,午後2時46分,史上最大の地震が発生した。その後に発生した津波は,多くの人々を呑み込み多数の死者や行方不明者を出した。これだけでも未曾有の惨禍である。それに加えて,福島県では太平洋海岸にある福島第一原子力発電所の全電源が停止し,発電所の機能が制御不能に陥った。そして,3月12日と14日に水素爆発が発生した。国民が考えてもいなかった規模と種類の災害が現実に発生したのである。本論文では,この原発事故に焦点を当てて,医科大学として,本学が何に直面してどう対応したか,そして後世に伝えていかなければならない教訓は何かについて,途中経過ではあるが述べてみる。 3月12日に第一原子力発電所から20㎞圏内の住民に避難指示が出された。対象住民は7~8万人で,約6万2千人が避難した(図1)。 この圏内での入院機能を有する医療機関の病床数は,約500床である。この中に介護施設の病床は含まれていない。初期被曝医療機関に指定されている4病院のうち,3病院は完全に機能を停止し,1病院が外来のみの業務となった。この事実によれば,初期被曝医療機関の設置場所を含めて,そのあり方が今後,大きな検討課題である。 精神疾患に対応してきた4つの医療機関は,30㎞圏内には存在しなくなってしまった。救急医療も,施設の損壊はもちろん,医療人も避難した結果,機能しなくなった。30㎞圏外に入院機能を維持できたのはわずか2病院であった。原発事故発生地域の医療の充実を図るために4月1日をもっての,県立病院とJA厚生連という設立母体の異なる病院の統合も,2つの病院が事故を起こした原子力発電所のごく近くに存在していたために,壊滅的な損傷を受け,統合という事業の遂行は不可能となった。 原発事故により,地域住民に緊急避難が発令された結果,この地域はもちろん,福島県全体の住民構成も変化してしまった。高齢者の減少は軽度であったが,若年者は大きく減少した。これに伴い,疾患構成が変化した。当然,対応すべき疾患も変化し,介護サービスの再建も急務である。 東日本大震災といっても,福島県と他の2県とは,その様相は全く異なる。それは,原発事故の有無で整形・災害外科 Vol.55 №3 2012「大震災を経験して─後世につたえるべきこと」(金原出版株式会社)掲載福島県の医科系大学のトップとして公立大学法人福島県立医科大学理事長兼学長 菊地 臣一整形外科Proposal of Great Eastern Japan Earthquake ; message from Fukushima Medical University東日本大震災を考えるはじめにⅡ.福島県と岩手・宮城県で の被害の差異(表1)Ⅰ.原発事故の地域医療への影響要 旨 2011年3月11日に発生した東日本大震災は,歴史上例をみない大惨禍であった。しかも,これに加えて発生した原子力発電所の機能停止により発生した放射能汚染は,人口密集地帯に発生した,人類が初めて経験する現代社会に対する科学的挑戦であった。最後の砦となる附属病院を有する本学のトップに求められたのは,第1に,情報の共有化と窓口の一本化の徹底である。第2に,リーダーシップの発揮と「拙速」の実行である。浮き足だって混乱した雰囲気のなか,リーダーシップを発揮すると波風が立つ。しかし,優先順位を決定し,衆議独裁で迅速に手を打たないと収拾が不可能になる。そして,「朝令暮改の勧め」である。その担保は,トップの責任である。これらのことを徹底するだけでスタッフは安心感を得て,一体となって難局に対応できたのである。Key words:Great Eastern Japan Earthquake, Tsunami, Fukushima dai-ichi nuclear accident

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