FUKUSHIMAいのちの最前線
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272地元医大の使命を新設し調査や放射線の影響などの情報提供に努めている。県民の質問に答えるため、コールセンターを学内に加え、6月には福島市中心部に増設した。 それでも「大勢の県民の切実な声に応えるには圧倒的に人手が足りない」と細矢は思う。ただ、不満も受け止めて粛々と調査を積み重ね、一人ひとりに結果を伝えていきたいという。「それが、県民の健康をずっと見守っていくことですから」(敬称略) 窓の外に見える信しの夫ぶ山やまの緑が、濃さを増していた。21日夕、福島市の福島赤十字病院の内科病棟で、研修医の垣野内景けい(26)は回診を終え、ひと息ついた。同市にある福島県立医大を今春卒業した。指導医について朝から薬剤の処方、カルテ記入などに追われたが、充実感もある。 「何が起きても動揺しない気がしている。原発事故に立ち向かった経験があるから」 横浜市出身。東京電力福島第一原発事故をきっかけに「福島の人の役に立ちたい」と強く思うようになった。* 東日本大震災が起きた昨年3月11日。県立医大では、控室となった食堂で、垣野内ら学生約80人がテレビが映し出す甚大な被害の映像にくぎ付けになっていた。「できることをやらせてもらおう」。あちこちで声があがった。 垣野内は「組織的に動こう」と叫び、大学や附属病院との連絡係となり、役割分担を指示した。患者の移送を手伝うと、車椅子から床のマットレスに下ろす方法さえ知らず、看護師に叱られた。それでも必死だった。 翌12日午後、第一原発1号機が水素爆発した。「福島市内も危ないんじゃないか」「実家の親が県外に逃げろって」。次々と学生が去り、約20人が残った。14日午前には3号機が水素爆発した。夕方、ヘリで搬送されてきた原発から20㌔圏内の病院の入院患者の受け入れを手伝うことになった。ヘリの機体は放射能に汚染されている可能性があった。「学生とはいえ医療に関わる端くれ。逃げるわけにはいかなかった」 救急医が真っ先にヘリポートに着陸した機体に駆け寄り、後を追ってきた学生たちに叫んだ。「僕が一番前に立つ。君たちは僕より機体に近づくな。後ろにいれば線量は高くない」 思い描いてきた医師の姿だった。足の震えが止まった。患者を乗せたストレッチャーを懸命に押した。* 15日朝には4号機で爆発音が響いた。「大損傷する可能性がある」との情報が入り、学生は避難した。 医学部5年だった宮沢晴奈(26)はその日、タクシーで東京の親戚宅に向かった。高速道路も新幹線も被災して使えず、岩手県の実家に帰れなかった。都内に入ると罪悪感に襲われた。「福島の友達や病院の人たちを裏切ってしまった」。福島で口にできなかった温かいお茶を飲むと、体が震えだし、目まいや吐き気をもよおした。 インターネットで、都内の医大に通う高校時代の同級生が募金活動を呼びかけているのを知り、19日から3日間、その仲間約20人と東京・上野公園に立ち続けた。約300万円を集め日本赤十字社に寄付した。活動は県立医大の後輩達が引き継ぎ、いまも福島市や帰省先の街頭で寄付を募っている。 現在は、奨学金の関係で実家のある岩手県で研修医をしている。研修を終えたら福島に戻るつもりだ。「福島の医療を支えられるように、一日も早く一人前になりたい」(敬称略)医学生 救急医とともに2012年6月27日(水)掲載㊤震災発生後、控室で待機する学生たち。疲労が表れていた(2011年3月、福島県立医大で)=同大提供㊦福島赤十字病院で研修医として勤務する垣野内さん(21日)

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