FUKUSHIMAいのちの最前線
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258福島原発事故における福島医大病院緊急被ばく医療班の対応である。当院においては,図1に示すように,1999年の東海村JCO臨界事故を受けて2001年に院内の一角に除染棟が建設された。次いで2002年には当院被ばく医療施設運営委員会マニュアル作成部会により院内緊急被ばく医療活動対応マニュアルが作成された。年に一度の災害訓練は行われていたが,同マニュアルが広く院内に周知されていたとはいえず,多くの職員は,被ばくした傷病者が実際に当院に搬送され,治療を受けることは想定していなかった。 事前のコミュニケーションとエデュケーションが十分であったとは言い難い。そのため,原子力災害発生初期の被ばく医療は困難を極めた。深く反省している。震災後の被ばく医療体制発災超急性期の混乱 発災後24時間は,地震,津波による傷病者が県沿岸地域から次々と搬送された。当院では発災翌日未明から搬入数がピークを迎え,骨盤骨折・重症胸部外傷に嚥下性肺炎と低体温を合併した患者3人が連続して塞栓術を受け,ICUに入室した。発災直後から福島赤十字病院DMATが活躍し,患者搬送のために沿岸被災地と福島市を何度も往復した。 3月12日,1号機水素爆発の情報は同僚から伝え聞いたが,報道に注意を払う余裕もなかった。住民避難指示が拡大し,14日になって3号機が爆発して事態は急展開を迎える。爆発現場で放射線に被ばくまたは汚染した可能性のある外傷傷病者が当院に搬送されることになった。しかし,いまだかつて被ばく患者の診療経験を持つスタッフが誰もいない。そこでわれわれ救急科と放射線科が即席チームを結成し,マニュアル1)を読みながら原発内で発生した患者4人を診療した。現在の福島医大病院緊急被ばく医療班の原型である。 3月15日は一生忘れられない日となった。同日未明にERのベッドで休む私に,「中央の者です。福島医大に自衛隊を派遣するので,原発内で多数傷病者が発生した場合に対応願いたいのですが可能でしょうか?」と女性の声で電話があった。睡魔と混乱と恐怖の中で電話の主の所属を聞き忘れてしまった。思い返せば当時唯一の「中央」からの情報提供だったのかもしれない。その数時間後には,3号機・4号機の爆発音と火災がTVで報道された。情報は錯綜し,院内は不安で満たされた。 同日午後には緊急被ばく医療の専門家集団である長崎大学・広島大学合同のREMAT(Radiation Emergency Medical Assistant Team)が来院した。しかし,ほっとしたのもつかの間,彼らから原発事故の概要と今後想定される事態について説明され衝撃を受ける。戦場のような業務想定にわれわれ医療者ですら死を意識し,動揺した。この震災の最中,自身の生命危機を感じ,死を覚悟した医療者は少なくないと察するが,われわれも同様の状況にあった。後の3日間,夜になると班員の誰かが泣き崩れながら語り,皆がそれを傾聴した。しかし,18日に行われた学外専門家による院内向けクライシスコミュニケーションをきっかけに気持ちが切り替わった。およそ250人の院内職員を前に語られたことは,今となってはすべて忘れてしまった。ただ,災害との出会いを必然ととらえ,肝を据えて事態に対処するのが先決と考え,院内緊急披ばく医療体制の再構築を決意したのを覚えている。緊急被ばく医療班の立ち上げ(図2) 当院の緊急披ばく医療班は,班長に放射線科学講座教授,副班長に救急医療学講座教授を擁し,実務レベルは学内外の救急医,放射線科医,看護師,放射線技師,病院経営課,医事課の事務系職員と,まさに多地域,多施設,多職種から構成される。今でこそ学内職員がその中心であるが,震災当初の数カ月間は,学外支援スタッフの方が人数が多いことも図2 緊急被ばく医療班の活動

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