FUKUSHIMAいのちの最前線
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第3章放射能との闘いFUKUSHIMA いのちの最前線255 福島市では3月15日15時頃から雨が降り始め,福島県立医科大学核医学に設置されているモニタリングポストのモニターの警報が鳴り,初めて福島市への本格的放射能汚染が始まったことを知らされた(図2)。被災直後の数日は20~30㎞圏内の避難民と原発内の関係者の対策が中心と思われたが,15日からは60㎞離れたわれわれ自身の被ばく・汚染の問題も考えざるを得ない状況となった。しかし,テレビ・ラジオ・新聞などの報道以外に情報は少なく,限られた情報の中での難しい判断を強いられた。 3月24日には長靴をはかずに建屋に入り,建屋に溜まっていた水によって両足が汚染した2名が救急車で搬送されてきた。病院の断水は解消されていたので充分に全身除染と両足の除染を行ったつもりであったが,足の除染は完全ではなく,1日入院したあとに放射線医学総合研究所に転院して,除染と被ばくの推定が行われた。 発電所のサイト内で汚染していると推定される傷病者のうち,福島県立医科大学緊急被ばく医療班が対応したのは12名であった。原発事故災害のレベルを考えると少ないと思われる。傷病の内容も軽傷であったことは,不幸中の幸いといえるであろう。 3月15日にはオフサイトセンター医療班が福島市にある県庁に移動したが*5,この頃から連絡がスムーズに取れるようになり,さまざまな指示が下されるようになった。除染に関しては,自衛隊,日本原子力研究機構の応援もあり,心強かった。緊急被ばく医療班にも長崎大学,広島大学,原子力安全研究協会などのスタッフが加わり,厚みを増すこととなった。 福島市では,3月15日~17日,22日に放射能の飛散が認められたが,その後は新たな放射能の飛来はなく,地表面のセシウム汚染が定着した状態となった。この間,実際には起こらなかったが,100名程度の規模で,汚染された被ばく傷病者が発生した場合の対応を想定した施設の設営が求められ,体育館やプールを活用するための養生,駐車場の車を排除してのスペースを確保して,汚染された原発作業者や避難住民の除染,傷病対応が試みられた。また,福島市に住んでいるわれわれ自身の安定ヨウ素剤の服用の可否とタイミング,高度被ばく(1Svを超える)原発作業者への治療対応などのシミュレーションも試みられた。福島県立医科大学の周囲で土壌汚染があり緊急被ばく棟の環境放射線量が増加,内部被ばく測定のために準備したホールボディカウンタ(WBC,Part 3, Chapter 5も参照)測定の下限値が大きく上昇してしまったことは想定外であった。すべてが未経験であり,日本医学放射線学会,日本核医学会,日本救急医学会などの関係者との電話,Eメールなどによるアドバイスを受けながらの対応であった。 原発事故災害により起こりうる可能性への対応をさまざまにシミュレーションしていたが,4月以降は落ち着きを取り戻しつつあった。しかし地表面のセシウム汚染が定着したことから空間線量率の高低が話題となり,汚染ならびに被ばくの評価と対応に関する問題が重要となった。 福島県立医科大学の緊急被ばく医療班の目的は,高線量被ばくや高濃度汚染が考えられる原発作業者の医療対応が主目的であるとされていた。原発の状況が落ち着いてくると,一緒に傷病者の対応にあたっていた消防救急隊員らの被ばくや健康管理にも図2 3月15日の福島県立医科大学核医学のモニターわれわれの周囲も汚染区域となった!

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