FUKUSHIMAいのちの最前線
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246 地震発生当日,津波の被害にあった福島県沿岸部の浜通りで,実際に津波の被害者に対する対応を行った大学所属の整形外科医師は2名であった.地震発生時,2名はそれぞれ双葉厚生病院(双葉町)と県立大野病院(大熊町)にいた.県立大野病院の1名は当日,福島市内へ戻ることができず,帰り道で双葉厚生病院に寄り,双葉厚生病院で対応していた1名と現地スタッフとともに,地震や津波の被害者の初期診療を行った.この2名は,地震や津波の被害者の搬入が一段落したのを見届けて,翌日夕方に福島市に戻った. 大学病院では,震災発生後,全面的に救急重症患者対応に特化した対応をとるべく準備を始めていた.具体的には,外来,定期手術を中止し,緊急用のベッドを確保するため,自宅の被害が少ない患者に対して退院をお願いした.さらに病院玄関フロアに臨時ベッドを多数用意し,看護学部棟に入院の必要はないが自宅に帰すことができない患者のための入所設備を確保した.また,救急患者に対応するため,希望する臨床研修医(初期研修医)を救急科所属とした.DMAT(災害派遣医療支援チーム)が最大で約35チーム,180名が福島医大附属病院へ集結した. 整形外科では,阪神・淡路大震災の経験から,崩壊した家屋から救出されて搬送される外傷患者が多くなるのではないかという予想のもと,緊急手術に対応すべく,終日最低6名以上を院内待機とし,人手が足りないときは在宅待機の者を呼び出すという体制をとった.院内待機していた者は,交代制で救急外来のトリアージ後の緑タッグ(後述)の外来を担当した.南東北で唯一使用可能であった福島空港を通じて,手術に必要なインプラントなどを全国各地の支援病院・企業・団体などから空輸して確保に努めた. 以上のように様々な準備をしていたが,実際には地震発生後3日間の震災関係の緊急外来受診者は大学病院全体で168名と,予想に反して極めて少数であった.168名の内訳は,緑タッグ(保留群,軽症群)93名,黄色タッグ(待機的治療群,中等症群)44名, 2011年3月11日の東日本大震災とそれに引き続く原発・放射線問題から、はや1年がたとうとしている。残念ながら福島県では、原発・放射線問題がいまだ収束の兆しがみえない。 福島県立医科大学は、津波の直接の被災地から内陸へ約60㎞入った福島市に立地している。福島医大整形外科としてのわれわれの経験は、主として後方支援病院、すなわち、被災地の援助をいかに行ってきたかに集約される。津波被害があった沿岸部における整形外科医の役割については、他稿を参考にされたい。本稿では、後方支援病院としてのわれわれの経験だけでなく、いまだ収束していない原発・放射線問題による福島の医療に関する現状を述べる。臨床整形外科Vol.47 №3 2012.3(医学書院)「福島県での経験から」掲載福島医大,福島医大整形外科の活動と福島県の現状大谷 晃司*1,2) 紺野 愼一*1) 宍戸 裕章*1)The Great East Japan Eathquake and Radiation Exposure Problem in FukushimaKoji OTANI*1,2) , Shinichi KONNO*1) , Hiroaki SHISHIDO*1)東日本大震災と引き続く放射線被ばく問題についてKey words:地震(earthquake),放射線被ばく(radiation exposure),整形外科外傷(orthopaedic trauma)*1)福島県立医科大学医学部整形外科〔〒960-1295 福島市光が丘1〕Department of Orthopaedic Surgery, Fukushima Medical University School of Medicine*2)福島県立医科大学医療人育成・支援センター Center for Medical Education and Career Development, Fukushima Medical University School of Medicine地震発生から数日間(超急性期:災害医療対応)

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