FUKUSHIMAいのちの最前線
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220福島医大被曝医療班の活動−communicationとeducation−明日,この風景は,この世界は,どう変わっているのだろう? その夜は「原子炉が爆発したら全員集合」と同僚と申し合わせ,みぞれのなかを帰宅した。 ベンゾジアゼピンで強制的に睡眠を確保した翌朝,少なくとも見た目の世界は変わっていなかった。大規模な原発破損は起きていなかった。だが,昨夜の雨と雪がもたらしたフォールアウトは,その後,数十年間続くであろう福島の憂いとなった。クライシスコミュニケーションと再生 夜になると一人ずつ泣き崩れ,心の内を語り,皆がその声に静かに耳を傾ける,というような日々が数日続いた。悲観的な現実を受け入れるプロセスは,あたかも癌告知後の患者の反応に酷似していた。感情失禁と,若干の諦めの後に,力が湧き上がるのを感じた。今,自分たちに何ができるのかを毎晩真剣に議論した。初期の不慣れな被曝医療にかかわった者を中心に,被曝医療班が形成されていった。 一方,病院では,職員が原子力災害や放射線による健康影響に大きな不安を抱えているため,長崎大学の山下俊一教授に急遽福島入りしてもらい,クライシスコミュニケーションを行った(メモ)。目の前で起きている危機に対して,この時期に,院内職員約250人がともに考える時間をもったことはまさに画期的だった。 この日を境に職員の意識が変わり,一丸となって災害に対峙した。実は,コミュニケーションの具体的な内容については記憶がない。覚えているのはただ「災害との出会いは必然であり避けることはできない。ならば胆を据えてこの事態に対応するしかない」と確信したことだけである。REMATによる緊急被曝医療システムの再構築 REMATをはじめ,外部機関による当院被曝医療システムの再構築が始まった。今回の原子力災害に伴う緊急被曝医療では,原発内で発生するあらゆる外傷・疾病に,あらゆる放射線被曝・汚染を伴った傷病者を想定する必要があった。そのため,通常の救急診療スタイルを極力維持しつつ,そこに緊急被曝医療特有の,放射線防護策,汚染拡大防止策,被曝線量・汚染核種の推定と除染,を外付けした被曝傷病者対応手順を即席で作成した(図1)。 16日には,REMAT来院後初の被曝傷病者が原発から自衛隊ヘリで搬送された。傷病者は外傷後に胸苦・胸痛を自覚し,血気胸が疑われていた。原発放射線管理要員からの現場核種情報聴取,自衛隊による全身シャワー除染,汚染検査,内部被曝検査のためのホールボディーカウンター検査…,筆者が外傷診療を行う脇で,REMATが的確に汚染検査や除染処置を行う。なるほど被曝医療は,通常のER診療に,「放射線防護策」「汚染拡大防止策」「被曝・汚染の評価」の三つを加えた応用医療なのだと初めて実感した。 24日には下腿に放射性物質の高度汚染が疑われた原発作業員2名が搬送された。原発内の医師からは,当時の劣悪な作業環境と未知の核種存在可能性の情報が事前に提供された。傷病者診療を最優先するが,状態が許せば全身シャワーなどの放射線防護・汚染拡大防止を行う手順が事前に話し合われた。 一方で,当院には報道関係者が集結し,被曝医療棟はスポットライトで照らし出された。自衛隊員がブルーシートを広げて動く壁を張り,傷病者をテレビカメラから保護した。この件以降,プライバシー保護用カーテンを屋外に設置した。患者診療中にweb上では,傷病者が放射線医学総合研究所(以下,放医研)に転送されたと誤報されている。web情報の信憑性について改めて学ぶこととなった。 翌朝も2名の被曝傷病者が来院,治療を行った。前回の傷病者を合わせた3名の傷病者は,web報道から遅れること1日後,精密検査のために放医研に転送した。多職種ミーティング 常駐する多施設多職種の被曝医療支援者間の連携を図るため,毎朝10時からの多職種ミーティングを開始した。 はじめに,特に院内職員のために,被曝医療は危機介入であり,ほかの医療行為と同様に一定のリスクを伴うことを共有した。組織の目的を原子力災害の早期収束と定め,そのために原発作業員の健康・安全・安心を支えることを業務内容とした。電力会社への不平不満は緊急時につき封印した。クライシスコミュニケーションとリスクコミュニケーション 複数の定義が存在するが,本稿では,クライシスコミュニケーションを,現在の危機に対する共考を指すこととする。一方,本稿におけるリスクコミュニケーションとは,将来発生する可能性のある事象,すなわちリスクに対する共考を指すこととする。メ モ何が変わったのか

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