FUKUSHIMAいのちの最前線
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第3章放射能との闘いFUKUSHIMA いのちの最前線219た。しかし,誰にも被曝医療の経験がなかった。そのためER担当医の筆者が,講習会資料を見ながら防護服とマスクを装着し,放射線科医師と技師の指導下に,救命装備が整えられていない被曝医療施設内に急遽機器を持ち込み,初めての被曝傷病者対応を行った。当時は,未経験の診療に対する不安や恐怖を感じる力さえ残されていなかった。幸い傷病者の汚染は軽度で,生理学的に安定しており,侵襲的処置は不要であった。 15日は2号機と4号機が爆発し,自衛隊機が飛行を自粛し,ドクターヘリが退避し,DMATが撤収した。事実上の孤立状態に,職員の不安は極限に達していた。この日も3名の外傷傷病者が原発から被曝医療棟に搬送された。同様に防護服とマスクを装着し,バディーの放射線技師と被曝医療棟で診療した。幸い3名とも汚染は軽度で,局所除染と洗浄,創縫合などで診療を終えた。慣れない被曝医療がいつまで続くのかと思うと気が遠くなった。 午後になり,長崎・広島合同の緊急被曝医療専門チームRadiation Emergency Medical Assistant Team(REMAT)*1が救世主の如く来院した。これで慣れない被曝医療から解放されると安堵した。実際,震災後初めて,きわめて論理的に,現在の原発の状況と予測される事態を説明してくれたのは彼らであった。しかし,その内容から推定される事態のあまりの深刻さに,われわれは言葉を失った。 「定期点検中で原子炉内に核燃料がないはずの4号機で,使用済み燃料プールの温度上昇が続いている。1・2・3号機原子炉のいずれかで制御不能の核分裂反応が起き,4号機は使用済み燃料に中性子が作用している可能性も完全には否定できない。原発の大損傷が,早ければ今夜にも起こるかもしれない。近い将来,発電所の作業員や自衛隊員,消防・警察職員に重症被曝傷病者が多数発生する恐れがある。傷病者は自衛隊ヘリで当院に搬送され治療をする。自衛隊が駐屯し,除染支援を行う。最悪の場合,当院も避難区域に指定され,病院閉鎖,隔離,孤立する。」 家族の顔が浮かんだ。院内職員には同日夜にREMATから同様の説明が行われた。皆,つらかったであろう。涙があふれ,もし許されるならこの状況から逃げ出したいとさえ思った。しかし,今,医療を中断しては,今後,医師としては廃人になってしまうと考え,思い直した。この頃,福島市内では,憶測が飛び交い,幹線道路は避難車の列で渋滞していた。 被曝医療棟の前では,自衛隊員が除染テントを設営していた。独立行政法人日本原子力研究開発機構(JAEA)の大型車両(身体計測車,身体洗浄車)が被曝医僚棟脇に横づけされていた(コメント)。*1 REMAT:放射線医学総合研究所(放医研)が設立した緊急被曝医療支援の専門家集団。医師,看護師,放射線技師,放射線物理の専門家ほか,から構成され,放射線災害現場に赴いて支援を行う。本震災では,放医研の職員派遣が困難であったため,長崎・広島両大学所属の緊急被曝医療専門家が,臨時でその役割を務めた。陸上自衛隊中央即応集団中央特殊武器防護隊(第103部隊):大宮に駐屯する,主に核・生物・化学(NBC)兵器などに即時対応するための陸上自衛隊精鋭部隊。今回の原子力災害では,被曝傷病者の全身除染支援をしていただき,被曝傷病者対応のためのシミュレーションを何度も共同で行った。イラクなどへの海外派遣経験もある凄腕隊員が多かった。礼儀正しく,対応も丁寧であった。2011年7月末に部隊交代するまで,われわれと家族のように暮らした。後を継いでくださった,山形,青森,伊丹,神戸ほかに駐屯する化学武器・特殊武器防護隊員も,それぞれに個性的な頼もしい仲間であった。独立行政法人日本原子力研究開発機構(JAEA):2005年10月に旧日本原子力研究所・旧核燃料サイクル開発機構が統合改名して設立。2011年5月末まで,当院で被曝傷病者の除染支援と原子力発電工学に関する知的指導をしていただいた。現在は文部科学省や内閣府の指導のもと,環境中の放射線モニタリングや住民の被曝線量測定,校庭・園庭などの早期の除染や市町村の指定地区における除染事業の実証など,諸活動を行っている。彼らも,つらい時期をともに過ごした戦友である。ともに戦った戦友たちコメントある日の福島医大被曝医療班

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