FUKUSHIMAいのちの最前線
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218福島県立医科大学附属病院 被曝医療班 長谷川 有史LiSA vol.9 №3「徹底分析シリーズ 3.11から学ぶ」(MEDSiメディカル・サイエンス・インターナショナル)掲載福島医大被曝医療班の活動─communicationとeducation─ 原子力災害において,震災前のわれわれに不足していたもの,それは原子力災害や放射線事故対応に必要とされる「コミュニケーションcommunication」と「エデュケーションeducation」だった。そしてこれは,医療全般においても危機的状況に直面したときに必要なものである。 未曾有の大災害が起きた。地震,津波により福島でも多くの尊い命が奪われた,そして原子力災害,情報災害が追い打ちをかけた。その影響は根深く,現在も多くの住民が避難生活を余儀なくされ,低線量の放射線影響に不安を感じている。“Step2冷温停止状態達成”,その現実は,循環注水冷却のホース1本に日本の将来が託された,なんとも頼リない状況なのだ。 今回の複合災害でわれわれにできたことは,多くの方々の力を借りて直面する問題に対峙することだけだった。再び同様の事象が発生したとき,いかに行動すべきか,突然の大災害に遭遇した医療者が何を感じたのか,何が足りなかったのか,本震災から学ぶことは何か,当時の記憶をたどり考察することは,医療者の一人としての責務と感じている。 震災前の福島県立医科大学附属病院では,行政,電力事業所,初期被曝医療機関,三次被曝医療機関との相互交流が希薄であり,現場レベルでの被曝医療交流は皆無に等しかった。 当院は,福島県唯一の二次被曝医療機関であり,病院の一角に被曝医療施設を有していた。院内職員向けに被曝医療対応マニュアルが制定され,年に1度は災害訓練が行われていた。しかし,広く院内にそれらが周知されていたとは言えず,多くの職員は実際に被曝傷病者が来院することを想定していなかった。 当院は,福島第一原子力発電所(以下,原発)から北西約58㎞地点に位置し,原発との間には阿武隈山地が横たわり,原発立地地域とは異なる二次医療圏にあった。そのため,自分たちが原発立地県に暮らす国民であるという意識に乏しかったように思う。超急性期の地震・津波災害への対応 当院は倒壊や停電を免れたが,断水のため透析部門が閉鎖され,手術や専門的治療が制限されることになった。DMAT参集拠点病院に指定され,全国のDMAT隊員から最終的に35チーム180人の医療支援を受けた。 震災後3日間のER受診患者数は,緑93,黄44,赤30,黒1の計168名であった。震災初期の重症者は,多くが津波による多発外傷傷病者であり,誤嚥性肺炎や低体温症を伴っていた。入院後の急変に対応できる医療者が少なかったため,侵襲的治療の閾値を低めに設定し,積極的に止血術や塞栓術,ドレナージ術を行い,生理学的安定化を優先した。救命救急センターでは,震災翌日未明にかけて重症外傷患者搬送が増加したが,その後は搬送数が減少した。これは,一つには地震や津波による傷病者の重症度の高さに起因すると考える。 福島赤十字病院DMATチームは,震災直後から,余震のなかを沿岸部津波被災地域と福島市を何度も往復し,重症傷病者の初期診療と搬送,さらには現場の情報提供に貢献した。原子力災害対応:初期の混乱とREMATの登場 3月12日には福島第一原発1号機建屋が,14日には同3号機建屋が水素爆発した。3号機の爆発に伴って発生した重症傷病者の当院への搬送が決まっ震災前の被曝医療体制あの時,何が起きたのか

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