FUKUSHIMAいのちの最前線
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第2章福島医大関係者行動記録〈手記とメッセージ〉FUKUSHIMA いのちの最前線137ナース応援誌ナースパートナーズ 2011.11 November No.24掲載公立大学法人福島県立医科大学附属病院 副病院長兼看護部長 中嶋 由美子東日本大震災・原発事故における看護部の対応と学び 3月11日、今まで経験したことのない、長い長い地震が起こった。災害拠点病院である当院はすぐに救命救急センターを中心に患者の受け入れ態勢をとった。夜8時には各県からDMATが集合。病院の施設自体の損傷はそれほどではなかったが、断水になった。福島市については重大な外傷患者の発生はなく、不気味な静けさの中、夜が明けた。 3月12日、津波などにより損壊した浜通り地区の病院からの要請で、循環器疾患患者の受け入れが始まった。そして、福島第一原子力発電所の水素爆発事故発生。二次被ばく医療施設である当院では、福島県のマニュアルに沿って「緊急被ばく医療活動」を開始した。これまでも毎年、被ばく事故に対するシミュレーションは行ってきたが、現実にこのようなことが起きるとは、誰もが思っていなかった。いざ、そのときになって戸惑うことばかりであった。 3月14日、文科省から派遣されたREMAT、そして長崎大学、広島大学を始めとする専門医療チームが次々に到着し、緊急被ばく医療活動の具体的な準備、手順などの態勢を整えていった。それと同時に、原発から20㎞圏内の病院などからの避難してきた患者への対応が始まった。外来の看護師を中心に、各病棟、手術部、集中治療部の看護師などで、その日から26日までに、延ベ173名の入院対応を行った。DMATが正面玄関ホールで患者のトリアージを行い、入院が必要な患者は当院で受け入れ、そうでない患者は、他施設や他県へ送り出した。何人来るのか、どのような状況の人が来るのか、どのような手段で来るのか、さまざまな情報が錯綜し、そのたびに多くの人手と時間を費やした。 患者さんは、雪の降る夜中に観光バスで到着したり、自衛隊のヘリや護送車で搬送されてきた。寝たきりであろう患者さんは、いつ取り替えたのかわからないおむつをし、包まれてきた毛布は尿でぬれていた。入院せずに移動をしていく方々には、看護学部の実習室に一晩休んでいただき、看護学部で作った炊き出しのおにぎりと水を配った。 このような状況の変化に対応するために、看護部は毎日体制を変えながら看護の提供を行った。看護師は、続発する余震と放射線の不安を持ちながら勤務を続けた。妊娠中や小さい子どものいるスタッフには休んでもらったり、院内に臨時の保育所を設けるなどした。放射線の不安に関しては早期に研修会を行い、放射線についての正しい知識の提供や、現在わかっている情報を伝えることに努めた。7月になってからは、線量計の貸し出しや小グループでの放射線についてのミニレクチャーを放射線専門の医師によって開催し、不安な要素を少しでも軽減できるような対策を行っている。 一方で、この大震災の体験は、悪いことばかりではなかった。スタッフからは、「改めて自分が看護職であることに気づいた」「患者だけでなく後輩看護師の安全を考えながら夜勤をするようになった」「いつも行っている看護ケアができなかったり、これでいいのかと疑問に思ったり、倫理的ジレンマを感じた」「水や物を大切に使うことを体験した。その中で感染対策や安全を考えることができた」「医師をはじめ皆頑張っているんだという一体感を持つことができた」など、今までの自分の看護を振り返ることができ、さらに一歩踏み出すことができたと思われる。まだまだ原発事故の収束の見通しがつかない現在。しかし毎日は、日常業務のうちに瞬く間に過ぎていく。管理者として、看護師が安心して働き続けられる環境を整えていくことが、患者への安全で安心できる看護の提供に繋がることだと考えている。

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