FUKUSHIMAいのちの最前線
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132ナース発 東日本大震災レポート(日本看護協会出版会編集部発行)掲載守家 詩織、阿部 仁美、松本 里帆福島県立医科大学看護学部福島県立医科大学看護学部:学生ボランティアを体験して①地震から3日後に家族と合流 3月11日の未曾有の大地震が起きたとき、私は実家である福島県浜通りの双葉町にいる家族の安否を真っ先に心配しました。地震後すぐに電話はつながらなくなり、連絡がとれたのは地震から5時間経ってからでした。家族の無事を確認し安堵したものの、故郷の地震や津波の被害状況を聞いて愕然としたのをおぼえています。「命があってよかった」──人々が口々に言って抱き合ったということを母から聞きました。これから待ち受ける避難生活を想像もしなかった町民は、そのときまで、時間はかかっても町の復興を強く信じていたように思います。 福島市にいた私は、地震から3日後、川俣町に避難してきた家族と合流することができました。このとき既に、福島市内のガソリンスタンドやスーパーには見たこともない長い行列ができ、多くの人で溢れかえっていましたが、きちんと順番を守って列を成していたことがとても印象深かったです。断水していたため、給水所に水をもらいに3時間並んだこともありましたが、誰一人として順番抜かしをするような人はいませんでした。寒空の下、3時間も並んでいましたが、そんな光景を見たら心が少し温かくなりました。 家族とともに川俣町の避難所に行くと、双葉町民が町としての機能を避難所に順応させようと必死でした。掲示板は人捜しの紙で溢れており、足の不自由な高齢者が毛布を敷いただけの体育館の床に無造作に横になっていました。目も耳も覆いたくなりました。いままで見たことがない光景にとまどい、状況を受け入れるには時間がかかりました。②川俣町の避難所で炊き出しの手伝い しばらく避難所で過ごすうちに、これからの生活に不安を隠せない人たちが座り込んだこの避難所で、「自分には何ができるだろう」と考えるようになっていきました。私自身も、自分の家族や自分自身のこれからの生活に不安がなかったわけではありませんが、不安な気持ちを抑えつつ、お互いに声をかけ合う住民を見ているうちに、自然と「何かしたい」という気持ちが強くなっていたのです。突然日常生活を奪われ、避難所生活を強いられている住民にとって、精神的ストレスが健康に大きな影響を与える可能性があるのではないか、と考えました。 そこでまず私は、住民の笑顔がいちばん多いと感じた食事の時間に着目し、「炊き出し」を手伝うことにしました。笑うことは免疫力を高めるし、食べることは生きるために必要不可欠で、食事自体がコミュニケーションの場にもなります。その手伝いをすることで、間接的に住民の健康につなげていきたいと思いました。炊き出しは避難所となっている川俣町の小学校の校庭で避難住民が主体となって行っており、調理をする人は頼まれたのではなく、自然に人が集まってきたということでした。川俣町から配給される物資の食材を使ってメニューを考え、その日の献立が掲示板に貼られていました。それを見に来るのが楽しみだという高齢者もいました。寒い避難所で過ごす住民にとって、温かい食事ができる時間は自然と笑みがこぼれていたように思います。 炊き出しは野菜を切ったり、おにぎりを握ったり、調理したものを運んだりと、限られたボランティアで住民全員に対応していたので、思っていたよりも大変だと感じましたが、食事を運んだ後の住民からの「ありがとう」の言葉が素直にうれしかったです。やがて子どもたちも手伝いにやってきました。1人、2人、それから避難所にある食事を運ぶためのお盆がなくなるほど集まってきました。誰かに言われた訳ではないのに、炊き出しを行う大人たちを見て、「自分も何かしたい」という思いが子どもたちにもあったのだと思います。同じ境遇にいる住民同士が、炊き出しを通して次第に大きな家族のようになって溢れる想いを形に守家 詩織3年

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