FUKUSHIMAいのちの最前線
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130した。 私が担当したのは3月13日(発災後2日目)とその翌日の2日間でしたが、12日午後に福島第一原子力発電所1号機の水素爆発があり、地震・津波被災患者への対応だけでなく、放射線被ばくへの対応もしなければならない状況に変わっていきました。院内への放射性物質汚染の防止のため、病院玄関先で居住地や水素爆発時の居場所などを聞き取り、被ばくの可能性の有無の確認作業をしました。被ばくの可能性があれば、スクリーニングチームにつなぎ、体表面汚染のチェックをしてから受診受付、外来診察へと誘導しました。 来院するのは受診する方ばかりでなく、緊急入院患者の面会者、退院・転院患者の付き添い、親類・知人の安否を確認しに来る方、「病院なら水洗トイレが使えるのではないか」と探りに来たという方などもいました。これらの人々にも放射線被ばくの聞き取りを行いながらの外来トリアージでしたので、とても煩雑で、教科書にあるような重症度・緊急度の判断や診療科の振り分けだけを行うという訳にはいきませんでした。 本大学附属病院は二次被ばく医療機関ではあるものの、原発から約55㎞の距離にあるので、初期被ばく医療機関で行うようなスクリーニングは想定されていませんでした。大学病院のスクリーニング所は急ごしらえだったため、当初は被ばくのない来院者の通路と被ばくスクリーニング所への誘導経路が交差する位置に設置されたり、防護もマスクと手袋とガウンだけで、シューズカバーやヘアキャップなどは装着せず、また床や建物内への防護対策も不十分な状態でした。原発立地県にある大学でありながら、被ばく医療に関する教育の乏しさを痛感しました。 本学では、原発20〜30㎞圏内にある医療機関の患者さんを広域搬送するための中継をしていたので、被災地外の医療機関が見つかるまでの間、看護実習室で約70人(ほとんどが寝たきり状態の高齢者)の患者さんの受け入れも行いました。私は直接かかわりませんでしたが、次々と入室し、そしてすぐに他医療機関への移送と、その慌ただしさは野戦病院のようだったと聞いています。②被災地での災害支援活動 看護学部では、市町村や県保健所と連携しながら、県内9市町で保健活動支援を行いました。現在も継続している市町もありますが、5月末までに教員18人が延べ日数136日間活動しました。このほかに、精神看護学領域の教員が医学部と連携してこころのケアチームとしての活動をしており、附属病院でのリエゾン活動や被災地でのこころのケアにあたっています。 私は発災5日目から、学内での医療支援活動から学外での支援活動に移行していきました。当初はガソリン不足で遠方への移動が困難だったため、大学から近距離にある避難所で市保健師とともに健康相談を行いました。その後、ガソリンが少しずつ手に入るようになり、発災10日目以降は継続して相馬市に入るようになりました。〔相馬市の被災概要〕 相馬市は、福島第一原発から約40㎞北方にある人口約3万8,000人の市です。沿岸地域は津波で壊滅的被害を受け、被害状況は、全半壊家屋1,593棟、死者・行方不明者459人にのぼります(福島県災害対策本部平成23年東北地方太平洋沖地震による被害状況即報[6月30日現在]より)。 私が情報収集のため相馬市を訪れたのは発災10日目で、このときの避難所の状況は、避難指示・屋内退避区域の病院から退院を余儀なくさせられた患者さんや、慣れない避難所で精神的に不安定な状態になった精神科疾患患者など、医療ニーズの高い人々がいました。発災から10日も経過していたにもかかわらず、相馬市ではDMAT等の支援がなく、市内の開業医や保健師等が巡回で救護活動をしていました。また、原発事故の影響で、他県保健師チームの応援の予定もない状態でしたので、3日後から教員2人で避難所支援活動を開始しました。〔避難所での活動(3月23日〜25日)〕 避難所では、様々な医療ニーズがあるにもかかわらず、自ら医療を求めてくる人は少なく、こちらから声をかけ、健康状態を確認して歩きました。前日から医療チームの応援が入り始めていたので、健康相談を行いながら要診察者を拾い上げ、医療チームにつなぎました。 避難所内はほこりが浮遊している床に毛布を敷いただけで寝なければならない環境のため、呼吸器症状を呈している人々が多数いました。清掃について避難所担当職員に相談しましたが、人数が多いため福島県立医科大学看護学部教員の支援活動

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