FUKUSHIMAいのちの最前線
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第2章福島医大関係者行動記録〈手記とメッセージ〉FUKUSHIMA いのちの最前線127送中にも大きな余震が何度も続き、附属病院と看護学部の建物を結ぶ渡り廊下では「このまま渡り廊下が崩れ、患者ともども命を落とすのではないか?」という恐怖を抱きましたが、患者さんに「大丈夫ですよ」となんとか声をかけていました。 また、電話が全くつながらず、震源地近くの仙台の実家の父親や姉夫婦、甥と姪、親戚、友人の安否がわからず、さらに子どもたちの安否もわかりませんでした。地震直後は、ただただ、いま目の前にあることに精一杯対応することで、その不安を取り除いていました。 地震時に大学付近にある市内中心部と大学をつなぐ国道4号線が崩落したため、市中心部や他地域からの患者搬送はさほど多くありませんでした。そのため、日付が変わる前に帰宅できる教員は一度帰宅することになりました。幸い私の自宅のある郡山方面は道路の被害が少なく、私は郡山市の自宅に帰ることができました。 郡山市で保健師をしている妻も市の災害対策本部で被災者対応に追われ、ともに日付が変わってからの帰宅でした。ようやく子どもたちの元気な姿を見て、糸が切れるように緊張がとけ、安堵したことをおぼえています。しかし、自宅でテレビを見たときに、暗闇の中で赤く燃えている気仙沼市の映像と、仙台市内でも津波の被害がひどく、さらに火災が起きていることを知り、「もう、東北は終わってしまう」と思い、ほとんど眠れませんでした。②避難所での支援 翌日には福島第一原子力発電所の水素爆発が起こり、福島県は原発事放による避難者が日に日に増え、避難者の健康問題も大きくなっていました。福島県立医科大学の教職員も被災地や避難所を回り、被災者支援を開始しました。私も3月下旬から、三春町やいわき市の避難所で被災者支援を開始しました。三春町では3か所の避難所を巡回し、端から一人ひとり話を聞いていきました。まだ3月の広い体育館の中は、暖房があっても底冷えし、高齢者の体力を奪っていきます。実際に70代、80代の高齢者がかぜをひき、寝込んでいました。1日に1回、地元の医師が避難所に往診に来ますが、1か所に200人以上いる避難者全員を診ることはできず、特に状態の悪い人のみの診察でした。しかも、どの人の状態が悪いかの把握もできないため、医師は十分な診察が行えない状態でした。そこで、私と神奈川県からボランティアで来ていた助産師さんの2人で避難者全員の身体状態を確認し、健康相談や普段服用している薬が手元にあるかどうかのチェックや、次回往診が来たときに医師が効率よく診察できるよう要受診者のピックアップなどを行いました。③被災者の精神面への支援 被災者の健康状態だけではなく、精神状態も問題でした。ある女性は、家族全員で避難してきましたが、夫が東京電力の職員でお子さんが医療関係者のため、2人とも仕事に戻ってしまい、1人で避難所生活をおくっていました。身だしなみも整っており、いつ夫と娘が避難所に戻ってきても大丈夫なように場所を確保するなど、とてもしっかりとしている方でした。一見なんの問題もなさそうに見えましたが、じっくり話をすると違っていました。 女性1人での避難所生活は、身体的なつらさとともに、心細さや先の見えない不安がありました。さらに当時は、マスコミで東京電力批判や、福島県民が避難のために東京のホテルに泊まろうとすると放射能を理由に宿泊を拒否されるなどの風評被害が何度も報道されていました。その報道を見て「私たちは東京の人のために電気をつくってきた。私たちが働くことで東京の人たちは電気を使うことができていた。地震と津波のせいで、私たちは家も財産もすべて失ってこんな生活になった。なのに、東京の人たちからこんなに責められて、東京に行くと福島の人間だからと差別されるなんて、なんのために生きてきたのか、なんのために働いてきたのかわからない」と泣いて語り、その心の傷はとても深いものでした。 避難所でも、東京電力関係の仕事をしている人と、その他の仕事の人との間にギクシャクした人間関係があり、彼女は避難所に1人でいるため誰にも話せずに、1人でその思いを抱え込んでいました。その後、私は避難所を訪問するたびにその方の話を聞き、感情を吐出して心の整理をするのを支援しながら、長野県から支援に来ていたこころのケアチームにつなげました。一見なんの問題がなさそうに見える人でも、ていねいに話を聞くと多くの問題を抱えていました。

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