FUKUSHIMAいのちの最前線
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第2章福島医大関係者行動記録〈手記とメッセージ〉FUKUSHIMA いのちの最前線123くると、いかに漏れなく、必要な部署に届けるかが重要になってきます。前日に副看護部長が手書きして始まったおにぎり配布先名簿の整備に取り組んだT看護技師は、組織図ではなく、病院平面図で配布先を拾っていきました。中央管制室や清掃員詰所、除染棟など、委託業者や特設部署は組織図に出ていませんが、皆、危機対応に協力してくれています。それぞれの場所でいくつ必要なのか、私とラウンドしながら、T看護技師はていねいに聞き出していきました。全55か所の「院内配布場所個数表」は、こうしてT看護技師の冷静な献身により完成したのです。 3月14日から病院食堂が再開して、おにぎりの委託供給ができるようになり、19時に支援物資のおにぎりが1万個届きました。その後、必要数は大きく変動し、院内各所から配布個数等についてのクレームも増えていきました。そうした中、看護学部学生ボランティアは、17日までおにぎりをつくり続けました。おにぎりのほか、様々な支援物資も届くようになりましたが、一度作成した院内配布場所個数表は、その後も修正を加え、看護部と事務部の情報共有に役立ちました。私はたまたまおにぎり主担当としてかかわりましたが、病院のあらゆる部署に看護部や看護師がかかわっていることを改めて認識することにもなりました。③活動を振り返って いま思い返すと、危機対応にあたって、いかに食料の確保が重要であるか、またそれが生身の人間の知恵と献身によって解決されるものであることを、私は学びました。病院看護部、事務部、看護学部教職員、応援職員、そして学生ボランティア、これらのすばらしい仲間と最も厳しい時期を乗り越えてきたことを、私は誇りに思うのです。 大震災からもうすぐ3か月になろうとしています。福島県の復旧・復興はまだまだ途上でありますが、全国から寄せられた温かい支援を活かし、災害拠点病院として、福島県立医科大学附属病院がその役割を果たしていけるよう、微力ながら貢献していきたいと考えています。①災害医療体制の準備と対応 3月11日14時46分、東日本大震災が発生しました。福島市では震度6弱の地震でした。福島県立医科大学附属病院(以下、当院)は、8日間水道水の供給が止まりましたが、その他のライフラインは確保され、建物の倒壊もなく大きな被害はありませんでした。 地震当時、私はドクターヘリフライト当番のため、病院内の救命救急センターにいました。当院は災害発生直後からDMATおよびドクターヘリの参集病院となり、私はDMAT隊員として、統括医師・看護師の指示に従って災害医療体制の準備を行い、院内スタッフとともに、参集したDMAT隊員の対応、搬送された患者対応等に追われました。 「都道府県は、災害時に管内等に参集したDMATに対する指揮、関係機関との調整を行う組織として、DMAT都道府県調整本部のほか、必要に応じでDMAT活動拠点本部、DMAT・SCU本部等のDMAT本部を設置する」というDMAT活動要綱に則り、3月11日、福島県災害対策本部内にDMAT調整本部が立ち上がりました。福島県は、県東部にある浜通り地方が地震・津波により壊滅的な被害を受けました。3月12日の東京電力・福島第一原子力発電所水素爆発を契機に、地震・津波・原発の3つの災害対応に状況が変化し、災害対策本部は緊迫していきました。②被ばくに対する対応 私は、3月13日から福島県災害対策本部・救援班、県DMAT調整本部補助業務のため、県庁入りすることになりました。病院内であれば目の前の患者さんを対象に看護を行いますが、災害本部では、200万人規模の県民が対象になります。刻一刻と変化する災害の状況、災害規模の大きさ、事態の深刻さを実感し、県民の人命を担う災害対策本部の任務に、いままでに経験したことのない不安と恐怖を感じました。 原子力発電所の水素爆発以降、災害対策本部には、放射線について「人体に影響があるのですか?」「被ばくしたかもしれない。どうすればいいのか?」という問い合わせが多く入るようになりました。私は救命救急センターに所属し、DMAT隊員として災害訓練を経験し、救急や災害についての対応は心得ていました。しかし、被ばくに対する問い合わせには、被ばく医療に対する知識が乏しく自信がもてず、対応に苦慮しましたが、切迫した状況の中、言葉のニュアンスに注意して対応にあたりました。災害対策本部だけでは対応困難なため、当院や医療支援に福島県災害対策本部への出向―DMAT隊員としての活動佐藤 めぐみ救命救急センター福島県立医科大学附属病院の活動記録

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