FUKUSHIMAいのちの最前線
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120①その日のこと 阪神・淡路大震災(1995年1月17日)以降、この日が近づくとなんともいえない気持ちがわき起こってきます。今年もこの日、私は職場の休憩室で阪神・淡路大震災に関するニュースを見ながら、その当時の状況について上司と語り合っていました。私と上司は、阪神・淡路大震災時に福島県震災救護班として神戸市長田区に派遣され、医療活動を展開した間柄でした。 今回の大震災が起こった2011年3月11日14時46分、夜勤から帰宅し就寝していたところ、突然家が大きく揺れ始めました。当時家にいたのは私1人であり、「また地震か」と様子を見ていましたが、揺れはひどくなるばかりでおさまる気配が一向に見られませんでした。瞬く間に家の中の家具等は倒れ、歩く場所さえなくなりました。外に出てみると人々が悲鳴をあげ、乳児を抱えた母親は道路に座り込んでいました。揺れは何度も何度も襲ってきて、恐怖に駆られました。そこに突然、雪までが降り出してきました。そのような状況でしたが、情報を得たいと思い、家の中に戻りテレビのスイッチを入れました。そこでは信じられない映像が流れ続け、私は体が震えてきました。基幹道路で通勤道路でもある国道4号線ががけ崩れで遮断される様子や、津波が街を一気にのみ込む様子が映し出されていました。病院では大混乱が起こっているのではないかと心配になり、何度も電話やメール等で連絡を試みましたが、通信網はすでに不通となっていました。 近隣の道路は大渋滞を起こしており、人々は寒い中、道路に立ちつくしていました。この日、私は自家用車を使用することができず、また道路状況からも病院への移動は困難と考え、地域で行動することにしました。私の在住する地区はお年寄りが多いため、近隣の方々と協力しながら地区内の人々の安否確認、けがや病気時の連絡先や避難場所の提示、食料の確保、生活空間確保のための部屋の片づけなどを手伝いました。②震災後の病院の様子 震災直後から病院では緊急体制が整えられ、通常の外来診療は閉鎖、定時手術は中止となり、三次医療対応がとられました。全国からDMATが到着し、そのスタッフの姿を見かけると、日常からはかけ離れた緊急事態に対し、改めて背中に緊張が走りました。そのような中で大学教員や職員らが集まる全体ミーティングが開催されることになり、あらゆる部門の情報集約・検討が行われ、各所属に伝達されていきました。このことは看護師として病院における実情や方向性を随時知ることができ、安心感と職員の一体感につながっていったように思います。 病院のライフラインとしては、電気は使用できましたが、断水であったため節水を強いられました。また、東北地方への物流が完全に停止したため、看護師はあらゆる工夫をして資源を節約しつつ、患者さんのケアを継続することを余儀なくされました。しかし、それぞれが様々なアイデアを出し合い、うまく対処できたのではないかと思います。患者さんの食料はある程度の日数分は確保できていましたが、売店にはお菓子1つなく、病院職員が自らの食料や飲料水を調達することは困難でした。そのような中で、職員向けに看護学部からの炊き出しがありました。後から聞いた話によれば、手が真っ赤になって感覚がなくなるほどいくつものおにぎりを握ったとのことで、そんなおにぎりを本当にありがたくいただきました。 さらに、資源不足はガソリンにも及び、職員の通勤に支障をきたしました。職員は各自自家用車のガソリンの残量を見つつ、乗合通勤をしたり、節約のために病院に泊まり込む者も多くいました。私は震災10日後にガソリンスタンドに5時間並び、ようやく給油を受けることができました。職員全体がお互いに力を合わせてこの状況を乗りきっていこうとしていたのだと思います。 地震直後より病院でも通信網が不通となったた大震災にかかわって、いま思うこと保坂 ルミがん看護専門看護師していくことが、私たちに期待されているのではないでしょうか。 このような原子力災害は日本初、いや世界初であり、福島医大でつくる被ばく医療のガイドラインが世界のガイドラインとなっていくことが予想され、その責任が私たちにあります。今後も医療チームの橋渡しとしての看護の役割を再認識しながら、システムをつくりあげていかなくてはなりません。* 最後になりますが、長期にわたり支援していただいた長崎大学の看護師をはじめ、遠方からサポートしてくれた専門職の皆さまに感謝申し上げます。また、被災された皆さまの1日も早い健康回復に向けて日々邁進したいと思います。地震・津波・原発事故への対応

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