FUKUSHIMAいのちの最前線
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116 あの大地震から2か月が過ぎました。ライフラインも復旧し、スーパーやコンビニでほしいものを何不自由なく買うことができるなど、ほとんど震災前と同じ生活ができるまでになりました。しかし、いまもなお続いている余震や連日の震災関連のニュース、屋根瓦の修繕ができないため民家の屋根を覆っているブルーシートなど、震災があったという事実を忘れられない光景があちこちで見られます。そして、震災から2か月が経過したいまも、避難生活を余儀なくされている方々がいるというのも現実です。①地震後、病院へ駆けつける 地震当日、私は自宅にいました。突然の大きな揺れの中、何が起こっているのかもわからず、家の外に出ると、近所の方々が集まり不安げな表情で立ち尽くし、おのおのが揺れる自宅や車をただただ見つめていました。私も目に入ってくるすべてのものが大きく揺れている光景や周囲の人々を見て、はじめて大地震ということが理解できました。そして、自分がこれまで経験したことのない現実が目の前で起こっていることに、大きな不安を抱きました。 当院の災害医療対策マニュアルでは、震度5弱以上の地震発生時には自主的に病院に集合することになっています。福島市の震度は6弱でした。私は大きな揺れが落ち着くと、すぐに病院へと向かいました。移動の間も余震は続き、運転しながらも揺れを感じました。また、途中の国道の斜面は土砂が崩れ、大きなトラックが崖のほうに押し流され、斜面の上にあった民家がいまにも国道の方へと落ちんばかりに覆いかぶさって傾いているという、いままで見たことのない異様な光景を目にしながら病院へと急ぎました。通勤で通っている国道は土砂崩れで通行できず、通行可能な道路へと多くの車が集中し、普段であれば10分程度で着く職場へも1時間以上を要し、ようやく到着することができました。 私の勤務している病棟は小児科病棟です。病棟へ着くと子どもたちやその家族が廊下に出て不安そうな表情を見せ、余震のたびに看護師が病室を駆け回っていました。明らかに普段とは違う異常を感じました。②地震後の小児科病棟 当院は建物の倒壊はありませんでしたが、地震の日を境に病院の環境は大きく変わりました。節電のために照明は一部のみで病棟全体は薄暗く、節水のため手洗いの水も捨てずにトイレヘ再利用し、物資の不足に備え、ありとあらゆる物を捨てずに再利用しました。普段であれば毎日、沐浴や清拭を行っている乳児でさえも、十分な水がないため、満足いく清潔ケアが提供できずにいました。そのような状況の中でも、スタッフ一人ひとりが、できる限りのことを患者さんへ提供しようという志のもと、ケアの方法を考え、取り組みました。 小児科病棟では、入院している子どもたちに加え、付き添いをされているお母さん方も病院で生活をおくっています。子どもが入院をするという負担に加え、地震によりすぐに家族と連絡がとれず安否が確認できなかったり、自宅の状況が確認できずにいたりする方も多くいたようです。それらは付き添いの家族にとって、入院生活が変化しただけでなく、精神的な負担としてとても大きなものだったと思います。 地震により子どもたちが見せる反応も様々でした。余震が起こるたびに母親から離れようとせずしがみつくように抱きつく子ども、普段どおりに遊び笑顔を見せてくれる子ども。同じような年齢の子どもでも、見せる反応は様々でした。中学生でも夜間になると不意に泣いてしまったり、口数が少なくなり笑顔を全く見せなくなったり、お腹が痛いなどの体の不調として変化が表れる子どももいました。今回のような危機的状況を体験した場合、子どもたちが「泣く」「怒る」などといった表現や体の不調で、自分の中にある地震に対する恐怖や不安を表出することは予測していたつもりでした。しかし、大丈夫であろうと考えていた子どもが見せた不意に涙を流すなどの予想外の反応に、私自身がとまどいました。大人でさえも恐怖を感じたあの地震は子どもにとっても大きな不安であり、地震による入院環境の変化などは少なからず子どもの心に影響を及ぼしたと思います。③震災を振り返って 今回の震災では、マンパワーが大きな力を発揮す小児科病棟で患児・家族にかかわって渡邊 佳代子4階西病棟の経験をもとにした各スタッフの行動マニュアルの早急な作成と、スタッフヘの周知徹底、物品管理について再検討する必要があると思いました。地震・津波・原発事故への対応

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