FUKUSHIMAいのちの最前線
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第2章福島医大関係者行動記録〈手記とメッセージ〉FUKUSHIMA いのちの最前線111ナース発 東日本大震災レポート(日本看護協会出版会編集部 2011年9月発行)掲載福島県立医科大学附属病院の活動記録中嶋由美子、目黒文子、横山美穂子、渡邊佳代子、齋藤美代、上澤紀子、大槻美智子、保坂ルミ、菅沼靖子、佐藤めぐみ福島県立医科大学附属病院地震・津波・原発事故への対応①対応の実際〔地震直後〕 突然やってきた長い長い地震。パソコンは倒れ、本棚が倒れないように押さえるのが精一杯でした。揺れの中、3人の副看護部長が院内の確認のため階段を駆け上がりました。外来の患者さんは玄関に集められ、雪が降る中、外に避難している人もいました。病棟の患者さんの確認は既に行われており、不在の患者さんの所在の確認作業がされていました。他科紹介やリハビリのため病棟外にいた患者さんが、車椅子で正面玄関に集まっていました。救急外来では、院内のDMATが中心となり、外傷患者のトリアージを行う場所の設置や役割分担など、対応の準備をしていました。大量の患者さんが運ばれることが予想されたので、看護学部の実習室から33台のベッドを看護学部教員の協力を得て玄関ホールに運び込みました。お互い声をかけ合い、何が必要なのか、どこに置けば動きやすいのか、寒さ対策はどうしたらよいかなどを相談しながら進めました。エレベーターが動かない間、救命救急センターに運ばれた患者さんや、病棟に戻れない患者さんの搬送を担架で行いましたが、ここでは医学部の学生が力を発揮してくれました。 地震発生後、建物の倒壊などの情報はありましたが、患者さんの搬送の連絡はありませんでした。21時を過ぎてから、市内の病院が損壊し、人工呼吸器装着の患者さん4人が搬送されることになり、集中治療部に収容しました。その後、これから来るであろう救急患者の受け入れのため、深夜帯に各病棟の移動を行いましたが、その日は外傷者等の患者搬送はほとんどありませんでした。ここまでが第1段階でした。〔原発事故避難区域の患者の搬送移動〕 翌日、福島第一原子力発電所の水素爆発があり、原発から20㎞圏内の医療施設の患者さんの搬送移動が始まりました。これが第2段階でした。当院は、外傷患者の受け入れから原発事故避難区域の患者さんの受け入れに体制を変えていきました。 県の災害対策本部からの患者収容依頼は、当院の災害対策本部に届くときもあれば、関係病院から直接来ることもあり、1施設の情報が複数箇所から別々に入るような混乱した中での作業になりました。昼夜関係なく、人数もはっきりせず、手段も明確でなく、1施設の受け入れに多くの時間と労力を費やしました。ベッドを移動した看護学部の実習室に院内の使用していないマットレスを74枚運び込み、学部の教員と看護師で受け入れ準備を行いました。 自衛隊のヘリコプターや輸送車で搬送されてくる方や、まだ暗い深夜3時頃に観光バスで運ばれてきた方もいました。トリアージを行い、入院が必要な人は病院へ、そうでない人は一時避難として看護学部へ収容し、翌日、別の地域へバスで移動していきました。通常であれば救急車で輸送するような人たちをバスで移動させることは困難であり、時間もかかり、申し訳ない気持ちでいっぱいになったと、かかわった職員は話していました。いったん入院した患者さんも、収容先が決まった時点で移送を行いました。最初の頃は観光バスで、後には各県から応援に来た救急車でピストン輸送をしました。断水のため、当院では透析患者を受け入れることができなかったので、雪の降る早朝4時にバスに収容し、東京の病院へ送り出しました。とても身につまされる光景でした。3月14日~26日まで、延べ173人の対応を行いました。〔原発事故による被ばく患者への対応〕 その後、第3段階として、被ばく患者の対応を行う体制をとることになりました。来院者に対し、出入口で放射線量測定を行いました。現在当院は、緊急被ばく医療体制をとっています。災害拠点病院としての対応中嶋 由美子副病院長兼看護部長

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