FUKUSHIMAいのちの最前線
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第2章福島医大関係者行動記録〈手記とメッセージ〉FUKUSHIMA いのちの最前線109銀海№215「震災手記・1か月ー東北地方太平洋沖地震ー」掲載被災、停電、断水のなか、活動支える家族に感謝福島県立医科大学准教授 石せきりゅう龍 鉄てつ樹じゅ緊急即応体制に有用なメーリングリスト 3月11日金曜日は手術日だった。増殖糖尿病網膜症患者の手術が終わり、患者さんを病棟に送り出そうとした、そのときだった。地鳴りと同時に突き上げるような揺れが襲ってきた。立っていることができず、私もスタッフも壁や柱に寄りかかった。避難路を確保しようと窓方向へ向かったが、揺れて歩くことができない。10秒、30秒、1分……と、揺れはいつまでも続いた。 5分も経っただろうか。揺れが小さくなったので外周廊下へ出た。外周廊下はまるで黄砂が降ってきたようにかすんでいた。12ある手術室のドアはすべて開放されていた。そのかすみの中を主任看護師が千鳥足で各手術室の内部の確認にあたっているのが見えた。外科の手術室を覗くと、患者さんの上にはブルーシートがかけられていた。ホコリを遮るためにかけられたらしい。手術室内部の損壊はなく、胸をなで下ろした。 手術室を出ると、病棟に帰るはずの患者さんが入り口で動けないでいた。ホコリの舞う非常階段を手術室のある3階から6階まで歩いて上がった。6階の病棟では非常口も窓もすべて開放され、冷たい風が吹き抜けていた。幸い入院患者さんには大きな被害はなかった。ただ、術後の患者さんはエレベータが使えないために病棟へは上がれず、看護学部の同じ階の部屋に移送された。高層病院での患者移送は非常階段を下ることはできても上階へ上がることは難しい。 大学の建物の倒壊はなかったものの、壁の所々に長い亀裂が走り、渡り廊下の一部はズレていた。階段を上がり下りして医局へ戻ると、本、雑誌、コピー機、パソコン、時計…、すべての物が落下していて入ることができなかった。実験室では壁際にあった3つの大きなフリーザーが部屋の中央まで移動していた。外来や病棟でもキャスターが付いているものは移動はしたが、転倒はしなかった。耐震用ストッパーなどで固定した本棚などはかえって壊れてしまっていた。 大学内医師の安否は直ぐにわかったが、派遣先病院の医師の確認には時間がかかった。医局員全員の安否が確認できたのは、震災から3日経ってのことであった。 大学では震災対応会議が開かれた。古田実講師が中心となって院内の震災対応にあたった。電気の供給に問題はないが、水の供給が止まったことがわかった。県内では、福島市、郡山市、いわき市などの大きな市で断水していた。大学では給水タンクでの蓄えはあったが、手術などは制限を受けた。三次救急医療を担う施設のライフラインは二重の供給体制をとるべきと思った。 震災後、東京電力福島第一原子力発電所の事故のこともあり、病院全体が緊急即応体制をとった。道路が寸断され、ガソリンがないので通勤もままならず、固定・携帯電話ともに繋がらない状態で、非常態勢をとる必要に迫られた。このとき、医局のメーリングリストが非常に役に立った。医局のメーリングリストに関連スタッフ全員のアドレスを、携帯アドレスを含めて登録した。これで、医局員、スタッフ相互に連絡を取り合うことができるようになった。また、飯田知弘教授は Macula Societyに参加のため、震災時はアメリカ出張で不在だったが、メーリングリストを介して連絡が取れたので医局への指示を仰ぐことができた。教授は直ちに帰国し、臨時の羽田─福島便の飛行機を乗り継いで大学に戻られた。 福島県の震災被害は至る所にあったが、やはり被害が大きかったのは津波の影響を受けた浜通りだった。浜通り地方は、北部の相馬地方、原発のある双葉地方、南部のいわき地方に分かれる。原発のある双葉地方はご存じのように立ち入り禁止区域となったために被害状況はほとんどわからない。いわき地方では震災による被害と断水のなか、一部の先生は診療を再開されているとのことであった。相馬地方

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