福島お達者くらぶだより

 2019 10 1日発行 通算 93

 

 秋になりました。この季節を楽しめていますか。拒食・過食はあっても、季節の食べ物を少しでも味わって食べられればと思います。ともかくも、あの猛暑や凄まじい雨もあった、そんな季節を生き延びただけでも良しとしてよいのではないでしょうか。

 この号では、編集者(香山)がふだんから言っていることを伝えられたらと思います(本に書いたことなのですが)。

 

親しい人に打ち明けられたらどうする?

 自分にとって大切な人、例えば自分の子ども、親友、学校の先生なら生徒から、拒食や食べ吐き、リストカットをしていることを打ち明けられたら、あなたはどうしますか?そのようなときの対応を考えてみたいと思います。

 

アドバイスする?

 まずは、「どうしなさい」あるいは「どうしたらいいよ」ということを教えてあげる、すなわちアドバイスすることが重要なのではない、ということです。例えば食べ吐きやリストカットが依存症の状態になって止められずに苦しんでいる人たちは、いくら理詰めに諭しても、本人だってそれはわかっていて止められないのです。どうすべきだ、どうしたら良いかなんて、本人の方がずっとよく知っていることが多い。それができれば依存なんかに陥るような苦労はしていません。

 それに、アドバイスは「あなたは間違っている」というメッセージですから、相手を傷付けかねません。そして、そのようなアドバイスは上から目線での言葉ですから、相手をコントロール・支配しようとすることになります。不安に揺れている人たちは自分の存在の危機を感じていますから、アドバイスを受けることで、さらに人に支配されて自分を失うことになる、その危険を無意識に感じて、強い拒否感を持つことが多いのです。それでガードを堅くしてしまい、心を本当には開いてくれなくなります。それは子どもでも同じで、例えばいじめられている子どもたちは、指導しようとする先生には本当のことを言いません。

 受け入れてもらえるのは、同じ高さの目線で話しかけてくれる人の言葉だけです(同じ高さというのは、象徴的な意味とともに、実際、相手が子どもやベッドに寝ている人なら、上から見下ろさないように、しゃがんで同じ高さになる必要があります)。その目線から苦しさに対する共感を持ってやさしさのこもった言葉をかけられたときにのみ、その言葉が心に浸み込んでいきます。アドバイスではなく、何よりも大事なのは、まわりの人たちが苦しんでいる人の不安を受け止め、その苦しさに共感してあげることです。

 

底つきを待つ?

 しかし、そのように対応しても、まったくそのかかわりを受け入れる気配のない人たちもいます。以前には、そんな人たちは一度、落ちるところまで落ちなければどうしようもないのだ、と考えていた専門家たちもいました。それを「底つき」理論と言います。しかし、底をつくのを待っていたら、そのまま死んでしまうかもしれません。だから、簡単に受け入れてくれなくても、繰り返し繰り返し、心配していることを伝え、「治療しよう、良くなってまた一緒にやっていこう」と誘い続けることしかできないし、それが必要なことだと私は考えています。

 そして、自分ではどうしてあげることもできなくても、適切な人のところにつないであげる、あるいは自助グループへの参加を勧める、などはできるでしょう。

 

一緒に考えていこうよ

 その上で、もし自分の方が援助職的なシニアな立場にあって、アドバイス的なことを求められている場合には、「一緒に考えていこうよ」と呼びかけるのがよいかと思います。相手が行き詰まってしまっていたら、「こんなことはどうだろうか?」と提案して相手の反応を待つ、その実行は難しいなら、どんなことなら可能かまた一緒に考え、他の提案ができるか考える。有効な考えが出てこなかったら次回に先送りする。それは何の解決にもならない――ということではありません。そうやって少しずつ心の中が動き出していくことになると思います。

 

ちょっとした言葉の使い方

 アドバイスは避けるとしても、ちょっとした言葉の使い方を教えてあげると役に立つことはあります。例えば、子どもの頃のお母さんの言葉がいつまでも心に引っかかり続けていている人がいるでしょう。それを何とか伝えたいけれど、そうするとお母さんは自分が責められていると感じて怒ってしまう、ということが怖い。そんな時には、「私はお母さんが大好きで、こんな面倒な私を見捨てずにいてくれたことを本当に感謝してる。けど、私の心を縛り続けていることがあって、決してお母さんを責めるのではないけれど、聞いてほしいことがある・・・・・・」と(多少嘘が混じっても)前振りをつけてから話せばよい、と教えてあげるのはどうでしょうか。

 しかし、思考が固まっている中高年の人たちには、もう少しアドバイス的な言葉が必要な場合があると思われます。そのような例ですが、離婚して一人親となった母親が再婚のために出ていって祖父母が過食の娘を世話していた、そのおじいさんは孫娘に「自分たちは先があまり長くないから、早くよくなってくれ」と言っていました。それに対しては、「その思いはわかるけれど、その言葉は娘さんにプレッシャーを与えることになっています。そこは『自分たちは先は長くないかもしれないけれど、生きているうちはちゃんと面倒を見てやるから、安心しろ』と言う方がよいでしょう」と伝えたら、おじいさんはそれをちゃんと受け取ってそのようにして、しばらくして娘さんは動き出せるようになった、そんなことがありました。

 そのような、ちょっとした言葉の使い方が大きな意味を持つときがあるのです。それは人生の智恵のようなもので、ミーティングでは他の人やスタッフが話すことの中に気づくこともあります。長く生きていく間に、そのような智恵を身につけていけたらと思います。