福島お達者くらぶだより

 2019 4 1日発行 通算 91

 

 4月になって、学校に在学中や役所関係で働いている人たちには、新しい年度が始まりました。それに加えて、今年度はまもなく天皇陛下の退位に伴って平成年間が終わり、新しい元号の年が始まります。昨年末頃から「平成最後の・・・」という言葉をよく聞きましたが、そんな言葉も「**最初の・・・」に置き換わるでしょう。けど、そのような言葉がどうであっても、我々にはただ毎日の生活が続くのですから、それが少しでも良いものであるようにと念じていきましょうね。

 ともあれ、お達者くらぶだよりの新しい号を送らせていただきます。

 

依存・回復を能動・受動でなく「中動態」で捉える

 「中動態」なんて言葉は、ほとんどの人は聞いたことがないでしょう。私も知らなかったのですが、昨年の学会の斎藤環(さいとうたまき)先生(精神科医で、今はこの分野の論客というべき人です)の講演で聴きました。この言葉は哲学者である国分功一郎氏が提唱している言葉だそうですが、摂食障害からの回復にも意味のある言葉だと感じたので、ここで紹介したいと思います。

 

 実は、この言葉が作られた国分功一郎さんの著書『中動態の世界−意志と責任の考古学』(医学書院、2017年)は依存症者との会話から始まっているのだそうです。酒やクスリに手を出すことは能動的行為なのでしょうか、受動的行為なのでしょうか。

 依存症(摂食障害も含まれます)は「意志」と「責任」をめぐる問題と言われることがよくあります。だから患者さんたちは「意志が弱い」「甘えている」そして「無責任」と批判されてしまいます。このような人々の誤解は、依存が「能動」であるとみなすことから始まっています。依存症は「能動」や「受動」で語れるような問題ではないのです。たとえば飲酒は意志的な選択によるものでも、病気によって強いられるものでもないのだと、斎藤環先生は話されました。

 その依存症の治療の過程で起こってくることも、治癒は治療者が与える(能動)のか、患者が与えられる(受動)ものなのでしょうか。そんな単純なことではなく、治療者と患者が言葉や行為を投げかけあっている中で、いつともなく良くなっていく、治っていくのです。だから、「治る」という言葉は、能動でも受動でもない、中動態的なものなのです。

 

 一般の人たちだけでなく依存症の本人でも、「強い意志さえあれば依存症なんて克服できる」と考えている人たちがいます。しかし、アルコールは(食べ吐きだって)「意志」をいくら強固に持っても止められません。なぜならそれは依存症という「病気」としての側面を強く持っているからで、治療していく必要があります。

 治療と言っても、医師にかからなければ治らないものでもなく、自助グループなど適切な人たちの支援の手につながることで回復していく、すなわちそれらも治療の力として働くこともあります。そのような治療の過程で、時間はかかるけれど、いつともなく(中動態的に)回復へと進んでいくものです。

 そこでもし「意志」が必要だとしたら、アルコールなどを「やめる意志」よりも、自分は良くなりたい、良くなっていくのだと「治療を続ける意志」でしょう。

 

 というような議論はさておき、過食症のことを考えたいと思います。過食の人たちが食べるのは、食べ物を(自分の意思で)食べるという「能動」的な行為でしょうか、食べさせられるという「受動」的な行為でしょうか。

 周りの人たちはそれを「能動」であるとみなして(だから「意志」の問題と見て)、過食なんて甘えだと言う人たちがたくさんいます。しかし、能動的に食べようという意志で食べているのでないことは明らかです。一方、統合失調症の患者さんの場合は外からの意志で食べさせられるという(妄想による)「受動的」行為がありうるかもしれませんが、過食症の人たちの食べるのは明らかにそうではありません。時には「食べさせられている」という感覚が生じている人もいるかもしれませんが、その食べさせているのは自分自身であり、能動とも受動ともつかないところで、ただ食べてしまうのです。

 そのように、アルコールや薬物の依存症と同じく、過食症の人の食べるという行為は「能動」や「受動」で語れる問題ではないのです。食べ物に手を出し口に詰め込んでしまうのは、意志的な選択によるもの(能動)でも、何者かに食べさせられているもの(受動)でもありません。「中動態」的に、何だかわからないうちに食べることになってしまっているのです。

 さらに進んで回復の過程も、例えば医療に救いを求めたとして、回復(ふつうの病気なら治癒)は治療者が与えるもの(能動)なのか、患者さんが与えられるもの(受動)なのでしょうか。回復はそんな単純なものではなく、患者さんの思いと治療者の思いが投げかけられあい、患者さんの行為と治療者の行為が交錯し、それが相互に浸透していく過程で、自ずと生成していくもの、それこそが回復です。

 どのようなところにつながり、どのように回復への道を選ぶかを決定するのも、その決定が「選んだ」とも「選ばされた」ともつかない状況でなされます。

 それゆえ、「回復する」という言葉は「能動」でも「受動」でもなく、「中動態」的なのです。食べるのを「やめる」でも「やめさせる(やめさせられる)」でもない、「(自ずから)やむ」とでもいうような状態で回復していくのです。

 

 それは引きこもりやニートの人たちの就労の問題に似ています。その人たちはなぜ働けないのでしょうか。主体的に(能動的に)「働かない」選択をしたのではないでしょう。たまたま何らかの事情で「働けない」状態となって、その後もずっと「働けない」と「働かない」のあいまいな境界領域に留まらざるを得なかったのだと考えられます。その状態は「働かない」(意志の問題)でも「働けない」(能力の問題)でもないのです。その「働けない」はふつうの病気の治療で何とかできるものではありません。

 

 福島お達者くらぶの本人ミーティングでは、長く言いぱなし聞きっぱなしでやってきました。そのやり方では独白に終わってしまうような状態になってきたためにやり方を変えたのですが、振り返ってみると、その独白は「自分がやめるしかないのだ」という「能動」へと突き動かさせてしまっていたところもあったのかもしれません。

 そのミーティングをスタッフが入った対話の形に変えたのですが、そのスタッフは参加している人たちにアドバイスして何かをさせようとする(すなわち参加している人からすると「受動」の)言葉は決して使わず、心にあったけれど言葉にならなかった思いが言葉として引き出されてくる、そのような対話になるようにと心がけています。そこで投げかけられた言葉と出てきた言葉が作用しあって何かが変化していく、それはまさに中動態の回復のイメージかと思います。

 

 何だかわかりにくい文章になったかと思いますが、お達者くらぶに参加するのに、ここで自分は回復するのだという決意(能動)を持ってではなく、ここで治してもらうのだと頼る思い(受動)でもなく、ここに参加すればひょっとしたら少し楽になるかもしれない、くらいの思いで(意味があるのか疑問に思いながらでも)来てもらえばと思います。実際、参加していれば、なぜかわからないけれど(中動態的に)心があたたまり、繰り返して参加していれば少しずつ楽になっていくのです。