福島お達者くらぶだより

 2018 10 1日発行 通算 89

 

 秋もお彼岸のころから急に涼しくなりました。そうなると、猛暑日がいつ終わるともなく続いていた、あの凄まじく暑かった夏のことも忘れてしまいそうですが、この会報を読んでいる皆様は、あの酷暑の日々を生き延びることができた、それはなかなかの力なのだと、自分を認めてもらえたらと思います。

 ともかくも、これから北国では山が燃えるような紅葉が進むまで秋は本番、少しでもこの季節を楽しんでください。その始まりの日に、いつものように会報を送ります。

 

ネガティブ・ケイパビリティについて

 ネガティブケイパビリティ なんて言葉は聞いたことがない人が多いと思います。「すぐには答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」のことで、精神科医で小説家の帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)先生が提唱している言葉です。「できない状況を受け入れる能力」ですが、仕事など「できる能力」(ポジティブ・ケイパビリティ)ばかりが求められる社会の中で、これもまた同じくらい重要なのだと提言されているのです。何しろ、人生には明確な答えのない問題ばかりですから。

 

 帚木蓬生というペンネームは源氏物語の二つの巻「帚木」と「蓬生(よもぎう)」からとられたのですが、彼は東京大学の文学部を卒業(専攻は、その後に医師を目指す人たちに多い心理学ではなく、フランス文学でした)、2年ほどテレビ局の勤務のあとに故郷・福岡県の九州大学医学部に進んで、精神科医になられました。今は北九州市の西隣の中間(なかま)市というところでクリニックを開業して、診療にあたりながら小説を書いておられます。

 医師としてはギャンブル依存を専門とされていて、その関係の自助グループミーティングにも出ておられます。そのクリニックのある地域は、昭和年代の前半の頃(第二次世界大戦の前・後それぞれ十数年)には全盛を誇った筑豊炭田のあったところで、気の荒い人たち、炭鉱閉山のあとはどのように生きていくか見えなかった人たちも多く、そのような中でギャンブル依存に陥った人たちも多いのだろうと想像されます。それゆえ帚木蓬生先生は(小説だけでなく)依存症関係の本も書かれています。「ネガティブ・ケイパビリティ」のこともその関係で本にされました(『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』朝日選書 2017年)。

 

 この「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉は、最初はイギリスの詩人キーツが作った言葉だそうです。キーツは、「シェークスピアがこんなに重要な作家になったのは、リア王にしてもマクベスにしても、それらの悲劇には答が明確に出せない問題が扱われていて、読んだ人はみんな、心の中で自分なりの答を探し出そうとする、そこに人間の根源的な心の働きが惹起されるからである」と論じる中でこの言葉を作ったようです。この世の中には答がない問題の方が圧倒的に多くて、心はなかなか落ち着けない、人間はその状態に耐えて生きていかなければならないのですから。

 その後、この言葉は忘れられていたのをイギリスの精神科医ビオンが再発見して、帚木蓬生先生はその著書でこの言葉を知ったのですが、そのペンネームとなった源氏物語について、(シェークスピア以上に)読む人々に人間の根源的な問題を問いかけてそれぞれの答えを見いださせようとしている、だから千年の長い歴史を超えて今も人々を引きつけているのだと、その登場人物をたどりながら「ネガティブ・ケイパビリティ」の本の中で論じられています。単なる光源氏の女性遍歴の物語ではないのです。

 

 帚木蓬生先生は医師ですから、受診してくる人たちを何とか楽にしてあげたい。しかし、ギャンブル依存などを専門にしていると、病院に来るその人たちが(だけでなく、その家族も)抱えている問題には、どうすればよいという答が見えないことが圧倒的に多い。医師として、それを解決してあげることはおろか、その道があることを示してあげることも難しくて、毎日が苦渋の連続だったのです。

 その中でこの「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を知って、帚木蓬生先生はその苦しさを抱えて耐えながらやっていくほかないのだと思いあたって、自分の生きる姿勢を定めることができました。「医師に求められるのは、すぐに患者さんを治せないことを受け入れて、患者さんが歩む長い道のりに連れ添うこと。ただちに解決できない状況に付き合えるのも一つの能力である。そう思えたら、肝が据わります。」とのことです。

 その患者さんたちも、何とか治したい、治さないと・・・、と思っても、できることは限られています。そのなかなか出口の見えない苦しさを受け入れ、それに耐えながら、自助グループに参加するなどして、時間をかけて「自分との折り合いをつけていくことが必要なのだ」と帚木蓬生先生は言われています。

 

 私たちお達者くらぶの主たるテーマである摂食障害のことを考えてみると、拒食や食べ吐きを止められなくて苦しんでいる人たちも、その家族も、そしてそれに関わる専門家・援助職者も、どうしたら治るという解決策なんて見つけられない、その状況にみんなが苦しむけれど、その苦しい状況を抱えて、それに耐えていくほかないのです。そして、帚木蓬生先生の言われているように、自分との折り合いをつけていかなければなりません。

 この「折り合いをつける」というのは、これを書いている私(香山)も以前から患者さんたちに(お達者くらぶミーティングでも)言い続けてきたことです。摂食障害の人たちはなかなかに欲張りで、常に完璧を求めています。完璧にできない自分を許せない、それが苦しみの大きな理由の一つです。それに折り合いをつける必要がある、それは諦めることでもあります。しかしそれは「質の良い諦めだ」と私は言います。無い物ねだりを諦めて、完璧にできなくても「まあ、いいか」と自分を受け入れるのです。完璧でなくても、十分に生きていける世界を作れますから。

 そして、今の苦しさに耐えて、生き延びていけば、必ず「生きててよかった」と言える日が来ます。そんなことは証明のしようがなく、医学・医療が重要視するエビデンスなんてありません。けど、生き延びてそう言ってくれた人たちが、以前にお達者くらぶに参加していた人たち(卒業生?)にたくさんいるのです。

 

 そう言えるところにたどり着くのに必要なことは二つだけだ、と私は考えています。

 一つは(いつか白馬の王子様が現れて救い出してくれるのをただ待つのではなく)よくなりたいと願って差し出されている手に自分からつかまることです。例えば、「どうせ誰もわかってくれない」と決めつけずに、お達者くらぶなどのミーティングに参加してみたり、仲間や援助者の中でこの人と思う人に話しかけつながってみようとしたりする。

 そしてもう一つは、自分の苦しさを拒食や食べ吐きで訴えるのではなく、(援助者に手伝ってもらいながら)言葉にして行く努力をすることです。そしてその言葉を自分にとって一番大切な人(例えばお母さん)に伝える。

 その際、それがお母さんを責める内容であっても、直接に怒りをぶつけるのではなく、「ここまで育ててくれたお母さんには感謝しているし、私はお母さんが大好きです、けど、どうしても心に引っかかっていることがあって、それを外に出しておかないと苦しくて仕方ないから、お母さんを責めるつもりではないのだけれど、聴いてほしい」というような言葉を前振りに付けておいて、穏やかに伝えることができれば、心はうんと軽くなります。それをまだお母さんには言えなければ、お達者くらぶのミーティングで口に出してみればいいです。

 そのように、自らよくなりたいと願い、その苦しさの由来を言葉にして行くためには、本やネットの情報も役立ちます。ただし、本や特にネットの情報には怪しいものも多いので、正しいものを見分ける目を持つことも必要です。その判断には先輩や専門家が役立ちますから、お達者くらぶミーティングなどで尋ねてみてください。

 

 そうしていけば楽に生きられるようになっていくけれど、それには年単位の時間がかかることも多い(心に負った傷が深いほど、取り組み始めるのが遅くなるほど、長い時間が必要になります)。だから、そこで「ネガティブ・ケイパビリティ」が必要になります。医者の方も、患者さんがなかなか思うようによくなってくれないと、つい焦ってあれこれ手を出してしまいがちだけれど、それでうまく行った試しはありません(私も反省しています)。摂食障害こそは(生命の危険があって積極的に救命の処置が必要となる極端な拒食の場合を除いて)みんながこのネガティブ・ケイパビリティをしっかりと意識していかなければならないのでしょう。

 みんな、先が見えなくても、今は耐えていきましょうね。必ずよくなりますから。