福島お達者くらぶだより

 2017 4 1日発行 通算 83

 

 冬が終わり、また春が来ました。サクラ、続いてモモ、リンゴ、ナシと花の季節になりますが、皆様はどのように過ごしているでしょうか。

 この季節、多くの人たちが新しい生活へと乗り出して行っているのに、自分だけいつまでも取り残されていて、このまま何もできないままになってしまうのだろうかと、あせり、落ち込んでいる人もおられるかと思います。アルバイトをしようとしても怖くて動き出せなかったり、実際にアルバイトに出ても続けられずにすぐに辞めるほかなかったりしているかもしれません。

 しかし、そのような人たちに伝えたいのは、「あなたには能力がないのではない、ただ、まだその時期が来ていないだけなのだ」ということです。実際、お達者くらぶを卒業していった人たちには、何度かの挫折を経た後に何とか続けられるようになったら、(何しろ完璧にできないと自分を許せないのですから)その仕事が高く評価されてしっかり生きられるようになっている、そんな人たちがたくさんいるのです。あなたも、いつか必ず。

 

福島お達者くらぶは創設25年になります

 福島お達者くらぶは1992年の秋から活動を始めましたから、あと半年で25年、四半世紀となります。お達者くらぶは医師・看護師・心理士のスタッフが運営の世話をしていますから自助グループではありませんが、その頃から活動している摂食障害のグループは東京・大阪など大都会にしかなく、地方都市としては最も古いグループです。特に、家族と本人のミーティングを隣同士で並行して行うのはお達者くらぶが全国で最初に始めたもので、今ではいくつのグループがそうしています。

 その25周年の記念に何かイベントを行うべきか考えているのですが、何か意見があればお寄せください。久しく途絶えている公開のセミナーを行うことも一つの案ですが、来年の春くらいを目処に考えたいと思います。

 

 

世界摂食障害アクションデイの案内

 日本摂食障害協会から世界摂食障害アクションデイ(World Eating Disorder Action Day)に合わせて行うイベントの案内が届きました(331日に届いて、急きょこれを書いています)。

 このアクションデイというのは、昨年から、摂食障害の当事者やその家族、専門家や研究者、サポーターらが世界40カ国、200以上の組織が国境を越えて団結し、啓発と支援活動を世界中で同時に行うもので、日本摂食障害協会は昨年のアクションデイにその発足記念の講演会を行いました。今年も次のようにイベントが企画されている、その案内と自助グループからの企画の募集が届いたのです。

 

日時:201764日(日) 10001600(予定)

場所:106-8677 東京都港区六本木7−22−1 

政策研究大学院大学 1階 想海楼ホール (定員300名)

          1階 会議室1A,B,C (それぞれ40名、壁を開放して120名)

内容:午前は協会が主体となって想海楼ホールでマスコミ向けの講演会を行います。

 会場費用はすべて協会が支払い、午後の想海楼ホール、会議室1A〜1Cを終日、自助グループや家族会に無償で提供しますので、イベントの企画がございましたら、ご応募、ご連絡ください。摂食障害家族会全国ネットワークの方々も企画中です。また、広い通路スペースがあります。

昨年は家族会、自助グループ、書店などがブースを出し、宣伝しました。今年も、そのようなブースの開設も可能です。

企画を希望される場合は、概要のみで結構ですので415日までにメール、FAX、郵便でご連絡ください。お申し出がない場合は、協会が企画させていただきますので、団体、あるいは個人での御協力をお願いします。

私どもが各グループ様の連絡方法を得るのに時間がかかり、ご連絡が遅くなりましたことお許しください。2018年も企画しますので、来年のご応募も歓迎します。

ご検討いただきますよう、お願い申し上げます。

 

 以上が届いた案内ですが、今年の2月末〜3月はじめ(227日〜35日)の世界摂食障害ウィークに合わせて行われる予定だったイベントは、今年は準備が間に合わなくなって行われませんでしたので、このアクションデイはしっかり行うのだと思います。お達者くらぶとしては活動25年のポスターを出すことくらいしたいと考えますが、他にも何か案がありましたらご連絡ください。

 

 

溺れている人に手を差し伸べる(家族・支援の方々に)

 生きづらさを抱えて苦しんでいる人、どのように生きてよいのかわからずにもがいている人が近しいところにいて、その人に支援の手を差し出そうとしている人に意識しておいてほしいと私(香山)が考えていることがあります。

 それは、「どうしなさい」あるいは「どうしたらいいよ」ということを教えてあげることが重要なのではないことです。なぜなら、そんなことは本人の方がよく知っている、けれどできないから苦しんでいるのです。その人にそんなことを言うと、「やっぱり自分はできないダメな人間なのだ」と自己評価をますます下げさせてしまいます。

 さらに、そのようなアドバイスは上から目線で相手をコントロール・支配しようとすることになりかねず、不安に揺れている人たちは自分の存在の危機を感じていて、それがさらに人に支配されて自分を失うことを無意識に感じて、強い拒否感を持ってしまうことになりがちです。そのようにアドバイスではなく、何よりも大事なのは、まわりの人たちが苦しんでいる人の不安を受け止めてあげ、その苦しさに共感してあげることです。

 しかし、その共感は共依存の危険をはらみます。共依存とは何かを改めて考えてみるのに、不安に揺れ、どうしてよいかわからずに苦しんでいる人を、水に溺れてもがいているような状態に喩えてみます。その人に手を差し出す場合、相手が小学生以下の子どもなら、水の中に手を差し入れ、体をつかんで引き上げてあげることは可能でしょう。しかし、相手が思春期以後の大人なら、手を差し入れて引き上げようとすると、相手は同じ体重で下の方にいるし、たっぷり水を含んだ服の重さ(それはその人の人生を包む悲哀)が加わって、逆に水の中に引き込まれ、二人とも溺れてもがくことになります。この二人がお互いに引っ張り合ってもがくことになるのが共依存です。

 精神科の医師や心理士たちは、共依存は避けなければいけないと教えられます。しかし、その共依存を避けるために岸から言葉をかけて励ましたり、泳ぎ方を教えたりするばかりでは溺れている人を救うことは不可能で、共依存の危険を冒すことになるかもしれない覚悟がないと人を救うことはできない、と私は考えます。時にこの世界にいる巨人、例えば心理の世界なら河合隼雄先生とか、精神科医なら中井久夫先生や神田橋條治先生などのすごい人たちなら別でしょうが、少なくとも凡人である私には不可能です。

 

 しかし、どのようにかして二人ともが溺れることは避けなければなりません。そのためには、助けようとする方は水際の木を一方の手でしっかりとつかみ、もう一方の手を差し出して、その手に相手の方からつかまってもらう他ありません。すなわち、助けようと思っても、自分からつかまってくれる人しか救ってあげられません。助けてもらう方について言うと、治りたいと願って差し出された手に自分からつかまらないと助からないのです。いつか白馬の王子様が現れて救い出してくれるのではと、他力本願に誰かが助けてくれるのを待っていても助かることはありません。

 助けようとする人がつかむその木は二人で引っ張っても折れない丈夫なものでなければならないのですが、その木というのは、しっかり鍛えられた、揺さぶられても揺らがない心の象徴です。それに耐える大丈夫な木がない場合には、木をつかむべき手を誰か別の人に引っ張ってもらう、そのような頼れる人が必要です。福祉や心理などの援助職に就くことを目指す若い人たちなら、そのようなスーパーバイザーにできる先生や先輩を見つけて良い関係を作っておく、そして、一人の時でもつかむことのできる丈夫な木を(一生懸命勉強して、自分の心の中に)育てましょう。

 しかし、そんなふうに人に手を差し出す、人を支えるというのは、専門家にとっても簡単なことではありません。低い自己評価による生きづらさを抱えている人たちは、自分も人も信じないという「不信」が心に根を張っていますから、手を差し出すと、その手が本当のものか試しまくられます。その人たちは「見捨てられ不安」も強く、その不安から逆に怒りの言葉をこれでもかこれでもかとぶつけてくることも多いのです。

 実は、その怒りをぶつけるのは自分にとって一番大事な人、信じたい人だけなのです。怒りに燃えているときには本人もそのことを忘れているけれど、怒りは「私を見捨てないで欲しい、私を愛して欲しい」という心の表明です。それを理解せず、「そんなに言うならもう来なくていい、勝手にしなさい」なんて言うと、その人たちはやっと信じられそうな人がいたのはやっぱり嘘だったと絶望して、その日のうちに深く手首を切るか貯めた薬を一気にのむことになるかもしれません。だから、そのように試されることには耐える他ないけれど、その時期を過ぎると、その人たちは本当にやさしい人であることがわかる、私はそのような摂食障害の人たちを何人も知っています。本当にやさしい人だから、苦しさを非行やいじめで外に向けて出すことができず、拒食・過食・リストカットなどで自分に向けるほかないのです。そのことをぜひ理解してあげてください。