≡福島お達者くらぶだより≡
2014年 1月 1日発行 通算 第70号
まずは重要な連絡です。
1月からの本人ミーティングのお知らせ
本人ミーティングは第2火曜日の夜に福島学院大学(駅前キャンパス)で行っていたのをやめて、この1月から以前と同じ第2土曜日(午後2時から)県立医大のゼミナール室に戻します。また以前と同じ家族との並行ミーティングになりますが、参加人数によっては家族との合同ミーティングにする場合もあるかもしれません。ご承知置き下さい。
3月のミーティング
3月のミーティングは、この日に県立医大では学生達の実習に関係する試験のために全てのゼミナール室などを使うために、いつもの部屋を使わせてもらえません。それで3月8日は光が丘会館(旧看護学部棟の横の小さい建物※)で行います。玄関やエレベーターのところに案内を出すようにしますが、気に留めておいてもらえればと思います。
(※福島県立医科大学では放射能問題をきっかけにさまざまな組織改編があって、たくさんの新しい建物ができましたが、それぞれの建物が○号館と数字で呼ばれるようになって、光が丘会館は7号館、旧看護学部棟は8号館が正式名称になりました。ちなみに、いつものゼミナール室のあるところは4号館です。)
最近、医学部の学生が増えたことと、臨床的な実習を増やさなければならなくなったことで、以前のようにいつも同じ部屋を使わせてもらうことが難しくなってきました(以前も入学試験と重なったときだけは別の部屋になっていたのですが)。それでも部屋を使わせてもらえるだけでありがたいと思わなければならないのだろうと思います。できるだけ前もって広告し、当日の案内もわかるように出したいと思いますので、ご了解ください。
お達者くらぶ事務局からのメッセージ
明けましておめでとうございます。
さて、今年はどんな年になるでしょうか。私(香山)はもう何年も前から毎年のように年賀状に「世の中はなかなか落ち着く気配がないのですが・・・」と書いていたのですが、私が歳をとって(そりゃ21年も経てば歳を取るのが当たり前です、お達者くらぶの始まった頃はまだ青年の雰囲気を残していたとしても)この先のことを考えてしまうからか、世の中はますます落ち着かない気配を感じます。
特に福島は3年前の大震災後の放射能汚染という問題が重くのしかかっていて、なかなか落ち着きません。香山は大学の福祉学部の仕事として、強制避難で仮設や見なし仮設(借り上げ)住宅に住む人たちの支援をしている生活支援相談員の人たちの支援(支援者支援)に関わっているので、特にそう感じるのかもしれませんが。
しかし、そのような中でも、お達者くらぶのミーティングに参加している人たちの話されることを聞いていると、みんなそれぞれ(時間はかかっても)進むべき過程を進んでいると感じます。本人も家族の人たちも、ちゃんと成長していっているのです。回復には成長によってたどり着けます。今も苦しい状態にいる人たちは、先のことを考えると絶望的に見えたりして、どうしても焦るのだけれど、まずは何としても生き延びていくことが大事です。以前にお達者くらぶに来ていた人たちでも、そうやって生き延びた人たちは、時間は何年という単位でかかったとしても、生きててよかったと言える時を迎えています。
本当はミーティングでその人たちの声を聞くことができたら、苦しんでいる人たちはもう少し先に明るさを見ることができるのだろうけれど、残念ながらその人たちは自分自身の生活に忙しくなってしまって、なかなかミーティングには来る余裕が持てないと思われます。だから、回復ということをなかなか信じられないかもしれませんが、回復に到っている人たちは本当にいるのです。眉につばをつけながらでも、信じてみようかなと思ってみてください。今年も1年、生き延びていきましょうね。
摂食障害とアルコール依存症
摂食障害は依存症の一つです。しかし、過食症の人でも、食べるのを止めてしまうわけにはいきません。それとは違って、典型的な依存症であるアルコール依存の人たちは、アルコールを止めるほかありません。アルコールは酩酊を起こして生きていることの苦しさを一時的に忘れさせてくれるために依存を起こすのですが、その誘惑力はあまりに強く、意志の力でしばらくは飲酒を止めることができたとしても、「ここまで止められているのだからちょっとくらいいいだろう」と一口飲むと、気がついたら泥酔していたということになるのです。
その誘惑力には意志の力では絶対に勝てません。だから、アルコール依存の人たちがアルコールを止めたいと願ったら、断酒会やAA(Alcoholics
Anonymous:無名のアルコール依存者の会)などの自助グループに繰り返して参加し、仲間の存在を力としていかねばなりません。そのAAはどんな会なのかをよく表現したブログをよみましたので、その文章をこの号の最後に紹介したいと思います(「かおる」さんという私の旧知の人のブログで、断りなく載せるのですが、かおるさん、知り合いのよしみで、許してください)。
そのAAから始まった自助グループ活動が摂食障害にも有効であることが知られるようになって、摂食障害の自助グループが大都会を中心にできるようになり、お達者くらぶは純粋な自助グループではありませんが、その流れを受け継いでいます。その活動の中で、最近、香山はさまざまなきっかけからAAとの関わりが多くなっています。先日もAA福島グループのオープンスピーカーズミーティングに参加しました。オープンスピーカーズミーティングというのは、ふだんのミーティング(ほとんどが平日の夜です)と違って、たいてい日曜日に朝から夕方近くまでたっぷり時間をかけて、関係者や各地のグループからも参加してもらって、たくさんの人たちが話していくミーティングです。私も話すようにと依頼されたのですが、そこで話したことをここにも紹介したいと思います。
AA福島グループでのメッセージ
仕事依存症の香山です。先ほどの方が「あのとき、アルコールを飲んでいなかったら、自分は自殺していた」と話されました。そのときはアルコールが生き延びる手段だったわけです。これは、私が接している過食症の人たちにとってはもっと本当のことです。食べ吐きは切実な生き延びる手段です。だから、私はその人たちに、「食べ吐きをしてもいい、リストカットをしてもいい、生き延びよう」と言います。生き延びてさえいれば、いつか生きててよかったと言えるときがくるのです。そんなことは証明のしようがないけれど、そう言ってくれた人たちがたくさんいるのです。そこまで生き延びられなかった人もいるのがつらいですが。特に摂食障害に特有な亡くなり方もあって、激しい嘔吐で血中のカリウムが低下して突然心臓が止まる人もいます。カレン・カーペンターがそうです。
しかし、食べ吐きもリストカットも生き延びる力を与えてくれなくなって、処方薬の大量服用(オーバードーズ)が加わり始めると、「してもいいよ」とは言えなくなります。それはアルコールの人が飲むのを止めるほかないことと共通しているところがあると思います。それならその人たちに何が言えるでしょうか。
その人たちに言えることはただ「なんとか生きていようよ。あなたに生きててほしいと思っている人がいるから。」ということです。「そんな人はいないよ、みんな私が死ねばいいと思ってる。」と言われるでしょうが、「いや、僕がそう思ってる。」と言って、毎週の外来でその人がまだ生きていることを確かめている、と私が尊敬する国立精神神経センターの松本俊彦先生が言っていましたが、私も全くそのとおりの言葉しかありません。
私は、今は精神科の医師もしていますが、専門とする摂食障害の人たちでも、治してあげる力はなくて治療者ではないし、有効な手段を示してあげられる知識もなくて援助者でもないし、ただ言葉を交わしながら一緒にこの世界を歩いて行きたいと思う同行者と思っています。ストレスに満ちたこの社会の中で、他の人を傷付けたりいじめたりして発散できずに自分に向けてしまう人たちが私は愛おしく、一緒に並んで生きて行きたいと思っています。
カオルさんのブログ: 酒をやめろというのをやめろの巻
AAはなぜアルコール依存症の回復に効果があるのか?
多くの人たちがいろんなことを言っている。
いわく、集団の力動のおかげ、とか。
12ステップの力だとか。
もちろん、それらの意見は当たっている。
でも、AAという集団の特性というか理念というか、そういう「雰囲気」みたいなものが果たしている役割も大きいと思うんだよね。
たとえばぼくは、AAに来ていちども「酒をやめろ」と言われたことがない。
AAは飲酒をやめたいと願う人たちの集まりだ。アルコホリズムからの回復を目指し、酒の問題と、壊れた人生の立て直しに取り組んでいる。
でも、この集まりの中で「飲むな」「酒をやめろ」と言われたことがない。
われわれはただ互いの経験を話し、プログラムに取り組む。
どうしたら問題を解決できるかについては話し合うけど、まだやめる気のない人、変わる準備のできていない人に「やめろ」とは言わない。
これは、AA理念の発露の一例だろう。
われわれはアルコールに対して無力だし、他人に対しても無力だ。ビル・Wが書いているように、われわれは経験というメッセージを携えたひとりのしもべに過ぎない。ハイヤーパワーに成り代わって他人を変えようなどとは思わない。
われわれがメッセージを運べば、彼のハイヤーパワーが彼を変えてくれる。そういう考え方だ。
飲んでいたころ、ぼくはさまざまな人たちに機会あるたびに「酒をやめろ」と言われてきた。
悲嘆に暮れて懇願する両親。酒をやめなければ離婚しかないと涙を流して訴える前妻。飲酒を何とかしなければクビになるという職場のプレッシャー。
彼らの訴えを聞くたびにぼくの心はきしみ、痛みを感じた。でもふしぎなことに、心が痛めば痛むほどぼくの酒はひどくなっていった。
AAは酒をやめる方法は提案するけど、やめろとは強制しない。
断酒を強制しない環境で、ぼくははじめて酒をやめることができた。
誰でも、強制には反発するものだ。とくにアルコホリクは過剰なまでに反発を感じる人種だ。
ぼくの場合も、酒をやめる必要性を理詰めで説教され追い詰められるほどに飲酒がひどくなった。
断酒を強制されない、温かい共感的な雰囲気の中で、はじめて酒の問題を見つめることができた。
強制なんかより、実例の方が100倍も説得力がある。
酒をやめて楽に生きていけるモデルがあれば、酒をやめろなどという必要は全くない。いまの自分の惨めな現実とどっちが良いのか、考えるまでもない。
逆に、AAが「酒をやめろ」「酒でどれだけ人生を失ったか考えてみろ」とニューカマーに説教を喰らわせるような集まりだったら、ぼくはAAにつながらなかったろう。飲み続け、今ごろは土の中だったろう。
アルコホリクの頭上には、ミサイル飽和攻撃のごとく無数の「酒やめろ」の言葉が降り注いでいる。爆撃から身をかわすのに精いっぱいで、冷静に我が身を振り返るどころじゃない。
ひどいアルコホリクがいたら、酒やめろというのをまず一度やめてみるといいと思うのですよ。