福島お達者くらぶだより

2013 41日発行 通算 67

 

 お達者くらぶだよりがメールマガジンに変わっての第2号です。初めて出した前号では、携帯で受け取る人も多いから文字数制限がある人もおられるかと3分割で送ったのですが、それでも入りきらなかった人がおられたとのことで、この号ではもっと短くして送ります。

 

 新しい火曜夜の本人ミーティングは、参加する人の数は少ないのですが、内容はすごく良いミーティングだったとの感想を聞いています。新しい人の参加が増えていて、昨年までの土曜のミーティングと参加できる人が違ってきているのかも知れず、しばらくはこのまま続けて行きたいと思います。

 

 つい最近(3月の末)、このメールマガジンの発行人・香山はある地方のAA(無名のアルコール依存者の会)グループのオープンスピーカーズミーティングに招かれてメッセージを届けてきました。今回はそのメッセージをお達者くらぶの皆様にも紹介したいと思います。

AAオープンスピーカーズミーティングで

 私は拒食症・過食症の人たちのグループ「福島お達者くらぶ」のスタッフの香山です。 お達者くらぶは私たちが世話をしていますから自助グループではありませんが、1992年の創設から丸20年、その当時から続いている摂食障害のグループは東京などの大都市にしかなく、かなりの老舗として摂食障害の自助活動の世界ではかなり知られています。その活動の中で、私は深く言葉を交わすようになった人たちからたくさんのことを教えてもらってきました。その人たちの泣きながら話す言葉は混乱していましたが、私はそれらの言葉に「てにをは」をつけて整理して文章にする作業をその人たちと共同でしてきたのだと思っています。

 今日、自助活動のオリジナルグループとしてあこがれと怖れの入り混じったような気持ちで見ていたAAの方々に招いていただき、メッセージをさせていただけて、うれしく思います。ありがとうございます。ここで話させていただくのに、何を話そうかと考えたのですが、せっかく時間をいただいたのだから、私の考えるところを少しまとまった形で話させていただきたいと思います。

 

アルコール依存症

 お達者くらぶの人たちの過食も依存症の一つですが、最も典型的な依存症は何と言ってもアルコールへの依存でしょう。なぜアルコールを飲むのか、そんなことはここで言う必要もないでしょうが、それは飲んで酩酊している間だけ、この世の煩わしいこともすべてを忘れることができるから、ということが一番大きいでしょう。しかしそれによって生活はよけいに苦しくなって不安や煩わしさはさらに強くなり、それ故によけいにそこから離れられなくなって、それに依存してしまうことになります。そのように依存とは、本来は快楽であったり、利益を与えるはずのものが、そのときのつらさや不安を忘れるために使われて、そのためによけいに苦しくなってますます離れられなくなるものです。

 摂食障害でもそれは同じです。もう20年近くも前のことですが、私のところに泣きながら電話をかけてきた女性は「私は今、生きているのが怖いんです。次に息を吸わなければならないと思うと、それさえも怖くてどう吸ったらよいかわからない。その怖さは食べ物を口に詰め込むことでしかやり過ごせないんです。」と言っていました。すなわち、その人にとって食べるのは、恐怖や不安に襲われている時間を生き延びるためだったのですが、そのためによけいに苦しむことになっていました。

 実は、私もパソコンのゲームから離れられなくなったことがありました。人生に行き詰まりを感じ、これからどう生きるかの選択に迷い苦しんでいた頃でした。私はパソコンで仕事をすることが多く、その仕事がうまく進まなくなるとついゲームを走らせる。それは息子たちがやっていた何日もかかるゲームではなく5分か10分で終わるゲームなのですが、ゲームが終わって「もう一度やりますか?」と質問が出たら、自分の意志とは関係なく、気がついたときにはYesが押されてしまっていました。そうやって最後は目が血走ってきてもやめられない。やればやるほど苦しくなることはわかっているのにやめられない。自分でこれはもう依存だと思っても、なかなか止められませんでした。

 ただ、私のゲームは本当の依存と言えるものではありませんでした。なぜなら、そうやって何時間もが過ぎても、最後に「まあ、いいか。明日頑張ろう。」と、情けない思いであっても自分に言ったからです。そう言えなくて、そんな自分を許せなくて自分を責めてしまう、そうやってどんどん追い詰められてしまうのが本当の依存です。私はいい加減な人間で、そこまで自分を追い詰めることができなかったから、のうのうと生き延びられてきた、それを依存症にまで自分を追い詰める人たちに対して、恥ずかしく思っています。

 

生きづらさの悪循環

 ともかくも、アルコールなどに依存してしまうと、人生は非常に生きづらいものになりますが、元はと言えば人生が生きづらいものであるからアルコールなどに依存してしまうわけで、なぜ人生がそんな生きづらいものになったか、それは皆様それぞれにさんざん突き詰めてこられているのだから、ここで話す必要はないと思います。

 いずれにしても、生きづらさとアルコールなどへの依存は悪循環を起こしてしまいます。その悪循環は放っておくと死に到ります。アルコール依存の人たちの自殺率は、国が自殺予防活動の中心においているうつ病の人たちの100倍以上だそうです。

 しかし自殺はしなくても、身体が限界に達してしまいます。アルコール依存の悪循環を断ち切らなかった人たちの平均寿命は52歳だそうです。その52歳で亡くなった人が有名人にもたくさんいます。誰もが天才と認めた昭和の象徴とも言える大歌手は521ヶ月で亡くなりました。関西育ちの私が一番の天才の漫才師と思う、言葉がアドリブで機関銃のように飛び出してきていた男は5111ヶ月でした。そうやって、さあこれからどれだけ円熟していけるだろうと思うところを生き延びられませんでした。

 だから、何とかその悪循環を断ち切らなければならない、それにはどうすればいいのでしょうか。それを断ち切り、回復するのがいかに難しいものか、皆様はよくご存じです。医療は無力だということも、よくご存じだと思います。

 私はその医療の世界にいるわけですが、私たちに何ができるか、ほとんど無力です。私にできることはただ、福島お達者くらぶのミーティングや私の外来に来られる人たちに一生懸命の思いを伝えることです。それは、あなたに生きていてほしいと心から願っている人がここにいること、そして「一緒に生きていこうよ」という言葉です。私は医師をしていても治療者としてその人たちの病気を治してあげられる能力は全く不足しており、必要な支援を提供してあげる援助者としても役立たずで、しかし、ただただその人たちと「この世界を一緒に並んで歩いて行きたい」と思う、同行者でいたいと思っています。

 

自助活動の重要性

 そのように同行者として、心に抱えている苦しさやその背景となるものを共感を持って受け止め、一緒に歩いてくれる人がいれば、それは生きていく力になると思います。しかし、いくら私がそう言っても、相手が医師というだけで心を開くのが難しくなりがちです。もっと自然に同行の人に出会えるのは自助グループのミーティングでしょう。

 人がこころ安らかに生きられるためには、どのようにあるべきという姿ではなく、自分はありのままの姿で受け入れられている、ここに居てよいのだと感じられる人間関係やそれを得られる場所が必要でしょう。自助グループはそれらを与えてくれる大切な場所になります。

 その自助グループを成り立たせているものは何でしょうか。それは、「慰めあう」という甘いものではなく、どうにも隠したり繕ったりすることができなくなった自分のぎりぎりの姿を率直に見せたときにのみ、聞いていた人の心に生じる共感だと私は考えています。私が深く関わってきたある人の言葉ですが、「本で読んだり、TVで見たりするのではない、目の前にいる人が語る生々しい現実が心に流れ込んで自分に重なったところに強い共感が生じた」という、その共感が積み重なったところに初めて「私は孤独な人間でない、この人たちと同じ感覚を持って、同じこの世界に生きている」という安心が生じるのです。

 その共感と安心感、そして、何かある毎に揺れ動きながらも、共感と安心感が積み重なって産まれる「自分もここにいていいのだ、生きていていいのだ」という思い、それがグループを成り立たせているのだと思います。傷を舐めあい、慰め合うような甘えを含んだ関係は、たとえあるとしてもごく一部分で、決して主たるものではありません。

 私はそのような自助グループが活動を続けられるようにと願い、その人たちとのよい関係を模索しながら、(お節介の手を差し出すのではなく)見守っていきたいと思います。

 

「信じない」が根を張っている

 そのようにして、何としても生き延びていってほしいと願い、前にも言いましたようにそれを同行者として一緒にこの世を歩きながら見守っていきたいと思う、そして必要な時には手を差し出したいと思っても、依存症に陥らざるを得なかった人たちの多くは「信じない」という心が頑強に根を張ってしまっていて、簡単には受け入れてくれません。「人のことなんか、絶対に信じてやるものかと思っていた」と私に言った人もいました。援助の手を差し出すひとは、その手が本当かどうかを試され続けることを覚悟しておかなければならない。それを試すために、援助者をわざと怒らせることをぶつけられたりもします。それは「こんな自分でも愛してほしい」という信号なのだけれど、それを理解できるだけの寛容さが手を差しのべる方に要求されるのは、なかなかつらいものです。しかし、時間をかければ、必ず通じます。

 それでは、傷つき続けて「人の言うことなんて信じない」と思っている人たちに、「こんな自分でもありのままの姿で受け入れてくれる人がいる、ありのままの姿で生きていける場所がある」とどうしたらわかってもらえるでしょうか。

 その傷ついた心を癒すことのできるのは、結局、人と人とのあたたかい心の触れあいしかないと私は思います。心の傷をかかえても生きていけるようになるためには、そのようなあたたかい触れ合いによって、自分はここにいていい人間なのだ、ありのままの自分で受け入れられているのだ、と感じられる場所や人間関係を、たとえすぐには信じてもらえなくても、それを何度も何度も積み重ねていく以外にありません。一回だけの経験で変われるほど人の心は柔なものではないからです。しかし、その安心の感覚を何度も、何年も積み重ねていけば、絶対に変わっていける、それを私は経験として知っています。

 それなら、そのあたたかい心の触れあいをどうしたら得ることができるでしょうか。

 

中高年の自殺はなぜ男に多い?

 そこで話しが少しずれますが、自殺者が年間3万人を超えて、減少の気配がありません。そのうち、中高年の自殺は圧倒的に男性に多い。なぜでしょうか。それは、例えば私たちの大学生のころには男の象徴のような三船敏郎という有名な俳優が出てきて「男は黙って**ビール」とビールビンをどんとテーブルにおくコマーシャルがあった、もうちょっと最近にも、やはり男のあこがれである高倉健が出てきて、ぼそっと「不器用ですから・・・」と言う、そんなコマーシャルに象徴されるように、男は昔からべらべらしゃべらないものだと刷り込まれてしまっていて、自分の苦しさを誰にも伝えられずに、黙って死を選ぶしかなくなるからです。

 一方、女性はだいたいにおいておしゃべりで、友達と1時間でも2時間でもしゃべり続け、そこで「そうだよね、そうだよね」と感情を共有してもらえるから、死なずにすみ、生きていけるのです。

 しかし、感情の共有よりももっと強く生きていく力になり得るのは物語の共有です。物語の共有とはどういうことでしょうか。例えば2005年に公開された「Always三丁目の夕日」という昭和30年代を描いた映画にあった場面ですが、売れない小説家が飲み屋の女の人に惚れて、想いを伝えるのに指輪を贈ろうとします。しかしお金がないから、指輪の箱だけ贈ります。「小説が売れたら中身を贈るから」という意味です。その女の人は箱を開けて中身がないのを見て、男に手を差し出し、「その指輪をはめてよ」と言います。そこで男は(本当はない)指輪をつまみ上げて、初めて女の人の手に触れてその指に指輪をはめてやる(ふりをする)、そうすると女の人はその仮想の指輪を電気にかざして「まあ、きれい」と言うのです。その二人には間違いなく一つの物語が共有されました。

 そんな物語を共有してくれる人がいたら、人は生きていけます。感情の共有でもいいけれど、できたら物語を共有する人がほしい。それには、指輪の箱などに込めた思いは受け取ってもらえるとは限らず、「馬鹿にしないで」と突き返されるのが落ちでしょうから、ふつうは言葉が必要です。しかし、その言葉というのは、「うざい」とか「きもい」といった自分の気分を吐き出すためだけの言葉ではだめで、自分の心の中にあることを、たとえそれは切れ切れの思いでも、それをつなぎ合わせて物語として話さなければなりません。

 

あたたかい心の触れあいしかない:言葉を、物語を!

 私は「こんな自分でもちゃんと受け入れてくれる人がいる、そこにいていい場所がある」という経験を積み重ねることでしかこの苦しさを抜け出す道はないと思っています。それには、心の中にあるさまざまな思いや切れ切れの思い出を言葉にしてつなぎ合わせ、一つの物語として語ることが必要です。それができるようになれば、それまで自分を縛ってきたがんじがらめの呪縛から少しずつ自由になっていけます。

 世の中にはその言葉をちゃんと受け取り、共感してくれる人が必ずいて、そこで言葉による共感から生まれるあたたかい心の触れあいだけが心を癒してくれます。自助グループは、その最も安心して言葉を、そして心をやり取りできる場所です。今まさに苦しんでいる人たちには、そのような場所や人間関係を利用しながら、自分が傷ついてきた歴史の物語をしっかりと見つめる気力と、その苦しさを言葉にする智恵と、それを受け取ってくれる人に伝える少しだけの勇気を持ってもらえたらと願います。

 繰り返しますが、自分の物語を見つめる気力、その物語を言葉にする智恵、その言葉を人に伝える少しだけの勇気、この3つを持とう、それが私のメッセージです。

 

(この最後の言葉は、これはアルコールの自助グループに来ている人たちへのメッセージだから強調したものです。摂食障害の人たちなら、生き延びてさえいたら自然に必ずその3つを持てるようになるのじゃないかと思います。)