福島お達者くらぶだより
第65号 2012年 10月 13日 発行
お達者くらぶだより第65号をお届けします。
この号がこのように印刷して郵送でお届けする最終号となります。次号からはメールマガジンになりますので、引き続き送付を希望する方はアドレスをご連絡ください。
実は、このメールマガジン化とアドレス連絡のお願いは春、夏と2号に書いたのですが、送付を希望してアドレスを知らせてくれた方はまだ少数しかいません。近いうちに、今まで私のところにメイルをいただいたことのある、したがってアドレスのわかっている方々にはこちらから送付を希望するかどうか尋ねてみようと思っていますが、この会報を読んでアドレスを連絡いただければありがたく思います。その連絡先のアドレスは次のとおりです。
f_otassya@yahoo.co.jp
福島の“f”にアンダーバー、そして“おたっしゃ”(otasshaではなくotassyaです)、ヤフーに作ったメイルアカウントです。
この新しいメールマガジン以外にも、お達者くらぶの状況についての新しい情報は常にホームページに載せていきたいと思いますので、そちらも折に触れて開いてみてください。
http://www.geocities.jp/fotassya3/
geocitiesに載せているのですが、このアドレスを打ち込まなくても、「福島お達者くらぶ」で検索すれば出てきます。
メイルは携帯だけで自宅にパソコンを持っていない方でも、図書館などの公共の場所で見ることができますから、ぜひ試してください。インターネットが使えれば、得られる情報量が一気に増えますから、やったことのない方も誰かに教えてもらって試してみることを勧めます。図書館なら、暇そうな時に行けば係の人が教えてくれるのではないかと思うのですが。
11月は20周年記念パーティーです
お達者くらぶが発足したのは1992年の11月で、その時は「福島摂食障害者の会」という名前でした。それではあまりに素っ気ない名前だし、当時は喫茶店を借り切ってクリスマス会をしたようなこともあったのですが、その名前では行きにくいというような声もあって、何か名前を付けようということになりました。それで「福島お達者くらぶ」という名前になったのですが、この名前を考えたのは若いメンバーの人たちでした。「お達者クラブ」というとたいていは老人クラブですが、それと少しは区別しようとしたのでしょうか、「くらぶ」はひらかな表記です。なかなかしゃれた名前だと、私は最初に聞いたときに気に入りました。
ちなみに、ミーティングが第2土曜日になったのは、その直前の1992年9月から公立学校が4週5休制となり、第2土曜日が休日になったからです。それまではずっと土曜日は半ドンと言って、午前中は授業があったのです。今の週休2日制を当然と思っている若い人たちには信じられないかも知れませんが、20年前は土曜は休日でなかったのです。(ついでに、半ドンのドンはオランダ語のドンターク−ドイツ語ならゾンターク、英語のサンデイ−日曜日のことで、博多どんたくという福岡市のお祭りと同じ語源です。長く生きると、どうでもよいようなことを知ってるものです。)
ともかくもそれから丸20年、何度もすったもんだの試行錯誤をしながらも、毎月一度のミーティングを一度も欠けることなくここまでやって来ました。私(香山)は自助グループの集まりに出て行ったり、関係の学会にも参加したりしていますが、摂食障害の自助活動の世界では全国的に「お達者くらぶ」の名前が知られるようになっています。
私たちもここまでの活動をまずはよく頑張ってきたと認め、その間に巣立っていった人たちも含めて、この20年を祝うパーティーを行いたいと思います。10周年の時以来のパーティーです。その時も懐かしい人たちに会うことが出来て嬉しく思いました。今回また、と思っています。
20年前に立ち上げの中心だったのは星野仁彦先生、本田教一先生、天沼幾緒先生たちでした。その先生方は転勤などそれぞれの事情でスタッフを退かれましたが、途中で加わってくれたスタッフも含めて、OB・OGのスタッフ全員に参加していただけるように案内を送りました。
さらには最初の数年間いつもミーティングに来て今のミーティングの形を作ってくれたNABAのモモエさんたちも来てくれることになっています。ずっと昔のメンバーは、その懐かしい顔に合うために、ぜひ参加してください。
現在ミーティングに参加している現役の人たちも、回復した人たちに会える、その人たちと話せる機会になるのじゃないかと思いますから、ふだんのミーティングの日と様子が違うだろうけれど、ぜひパーティーにも参加を予定しておいてください。
パーティーは通常の(あるいは少し短縮した)ミーティングが終わって4時半から行います。飲み物と軽い食事を用意します。場所はミーティングと同じ県立医大の1階にある学生食堂(医学部玄関を入って右側、自動販売機の奥)です。参加費は無料です(今年の初めにもらった福島医学会社会医学賞の賞金をこれに役立てます)。
12月からミーティングが変わります
お達者くらぶでは、20周年という成人を迎えたところで、今年の12月からミーティングの形をかなり大幅に変えます。この20年間の歩みはさまざまな試行錯誤の連続でしたが、今また大きな変革の必要な時期にさしかかっているのを感じているのです。
最も大きな問題は、本人ミーティングの参加者が減少してきていることです。最近では5人を上回ることは稀になり、3人ということもよくありますし、1人のこともありました。だから心の内に溜まることをゆっくり話すことはできますが、これでは先行く人に出会えるというミーティングの意味の一つは難しい状況です。
しかし、このミーティングが完全に役割を終えたとは思えません。そこで、さらなる試行錯誤を続けてみようと思います。そこで試みる最も大きな変化が今年の12月からの本人ミーティングで、いろいろな自助グループのミーティングと同じように平日の夜に町中で行うことにします。平日の夜だと、回復が進んでいて仕事を始めている人たちも参加しやすくなるかと思います。
平日を何曜日にしようかといろいろ調べてみたのですが、ひょっとしたら重なる人もいるかもしれないACAやAAのミーティングがない日として、火曜日にすることにしました。それで、第2火曜日の午後6時半から開始です。
町中の会場としては、昨年度から私(香山)が勤務します福島学院大学・福島駅前キャンパスの心理臨床相談センター内にあるプレイルーム(このセンターに相談に訪れる子どもたちのプレイセラピーの部屋です)を使わせてもらえるように、正式に許可を得ました(臨床心理の大学院を持つ大学としてのサービスという位置づけです)。靴を脱ぎ、カーペットに座り込んでのミーティングという、新しい雰囲気になります。〔ついでですが、お達者くらぶの事務局を私の研究室に置くことも、正式に大学に認めてもらいました。〕
なお、家族ミーティングについては、十数年前のように常に20人くらいも参加ということはずいぶん以前からなくなりましたが、入れ替わりながらも毎回5〜9人で安定しており、ほとんどの方が仕事をしておられ、車で来られることなどから、今までどおりに第2土曜日に医大のゼミナール室で行います。
これでは本人と家族が一緒に来るというお達者くらぶの特徴は失われますが、それは、希望すれば本人も家族ミーティングに入ってもよいことにすることで補いたいと思います。
今年の1月に医大ではすべての部屋がセンター入試で使えなかったため、近くのレストラン(風の谷)で家族・本人一緒のミーティングとした時に、なかなか雰囲気がよかったのです。参加していた本人も家族も、ふだん聞けない人たちの話を聞くことができて本当に良かった、と言っていました。
ただし、家族の方はそれでよいでしょうが、本人の方でそのように言えるのは、何度もミーティングに出て人の話を聞くことに慣れてきている人たちでないと難しいでしょう。まだ思春期の人など、家族ミーティングには適さないと思われる人が来たような時には、スタッフの判断で別に対応することにしたいと思います。
ということで、とりあえずこの形で始めたいと思います。本人、家族ミーティングの日時と場所をまとめておきます。
【12月から】
本人ミーティング
第2火曜日 午後6時半から
場所:福島学院大学 福島駅前キャンパス
3階 プレイルーム2
福島駅東口から駅前通を東に歩いて5分、
国道13 号線を渡った歩道を右側に30m
(パセオ通り側にも入り口があります)
廊下の中央付近にエレベーターがあります
左側のエレベーターで3階に上がって左に
(右側のエレベーターは3階に止まりません)
家族ミーティング
第2土曜日 午後2時から (今までどおり)
場所:福島県立医大 5階 第3ゼミナール室
(今までの隣の、本人が使っていた部屋です)
12月のミーティングだけは、昨年と同じく、
4階の第1ゼミナール室になります。
(エレベーターや廊下に案内を出します)
(11月のミーティングは今までどおり県立医大の第3、第4ゼミナール室です。そのあとに、前ページに案内する20周年記念パーティーです。)
“生きたい”という心の声と向き合って
私(香山)は11月に開局15周年を迎える福島いのちの電話の記念フォーラムで行われるパネルディスカッションのパネラーに招かれています。そのテーマが上に書いた表題で、それに「〜15年の歩みと課題」という副題が付いています。
このテーマを与えられた時に、私はそこで話す言葉がすぐに浮かんできました。それは、お達者くらぶのメンバーの人たちと付き合ってきていつも考えていたことを話せばいいのだと思ったのです。
それは、何度も何度も聞かされてきた、「死にたい」と言う人たちのことです。そのようにあからさまな言葉を使いたくない人たちは、「私はもう逝きたい」と言ったり、あるいは「お空に帰りたい」と言っていた人もいました。
ある人はふつうに「行く」と書くべき時でも必ず「逝く」と書いていて、両親にそれだけは止めて欲しいと言われていました。その人は本当に逝ってしまわれて、私は慟哭の思いでその連絡を受けました。お空に帰りたいと言っていた人も、本当にお空に帰られました。そのお母さんが遺品を整理していた時に、大切にしまわれていた私からの手紙を見つけて、連絡をくれました。
そのように、私は「死にたい」という言葉を何度も聞いてきたのですが、そのたびに思ったのは、「死にたい」というのは「生きたい」という心の裏返しの叫びなのだということです。本当は「生きたい」のだけれど、ただ、その「生きるに値する世界を見出せない」、その絶望感の言葉だと、私はいつも感じていました。
しかし私は言います。「生きてさえいれば、生きてて良かったと言える日が必ず来ます。」
この言葉が正しいか、それは証明のしようがありません。しかし、私に「苦しかったけれど、生きてて本当に良かった」と言ってくれた人たちがたくさんいるのです。上に書いたように、そこまで生きていられなかった人たちがいるのが何とも残念で、心が痛むのですが。
人間はいつか必ず死ぬわけですが、死ぬ時に恨みや無念さを残さずに、「自分もよく生きた」と思えて穏やかに死を迎えることができる、そのように生きられればと私は思っています。
お達者くらぶに集まる人たちは、なるほど今は苦しさをかかえて身も心もよじれるような生活を送っているとしても、生き延びて最後に(たとえ短い期間でも)穏やかに過ごせる日々を持つことができれば、何しろそれまで波瀾万丈の出来事には事欠かない人生でしょうから、「自分もよく生きた」と満足感に近い思いを持って死を迎えられるのではないかと、私は思っています。だから、今は苦しくても、何としても生き延びていてください。今は生き延びるのが仕事です。
今回のパネルディスカッションの案内をもらった時に、もう一つ心に浮かんだことがあります。それは3年前の福島いのちの電話広報誌に載った高塚雄介さん(明星大学人文学部教授・日本精神衛生学会理事長)が書かれていたことについてです。次のようなことが書かれていました。
「自殺というのは自己決定権の一つの表し方ではないのか。我々は、子どもの頃から自己決定ということの大切さを叩き込まれてきた。尊厳死や安楽死もまた、自己決定権の一つとして少しずつ是認されようとする現代社会において、生存権と並んで、死を選ぶ権利も与えられて然るべきである。」と発言する若い人たちがいる。それに対してどう答えるべきか迷った。残された者の悲しみをいくら説いても、「自分は他人のために生きているわけでない。」と言われてしまう。
高塚さんはさらに
今日の若者たちは、他人に助けを求めることはあまりしようとはしない。「自助型」の生き方を良しとする価値意識を刷り込まれて育った今日の若者たちは、なんでも自分一人で解決しようとする。他人の援助を受けることは、甘え・依存ということになり、恥ずべきこととして拒否しようとする。・・・ひきこもる若者たちも同じである。共助ということを重んじる感覚はあまり育てられてはいない。
ということが背景にあると考えておられます。
しかし、「自殺も自己決定権である」という若者たちの言葉に対して、私は明確に主張します。「自殺する人は、死を選ぶほかないところに追い込まれているのであって、自由な意思や選択の結果ではない。」ということです。すなわち、「自殺も自己決定権の一つであると主張するのは、それは強者の論理です。」そして、「弱者に対して思いを馳せるやさしさを持たないと、人との関係で成立しているこの社会の中で生きるのに、本当の幸せな人生はあり得ません。」と私は伝えたいと思っています。
とにかく、皆さんは「死にたい」と思った時に、自分は本当は「生きたい」と思っているのだと意識してください。そして、そこで生き延びるために他の人の力を借りることは何も恥ずべきことではない、と自分に言い聞かせてください。その手を差しのべる人は必ずいます。とりあえず、お達者くらぶのミーティングに来てみてください。
最近出会った言葉から
最近受け取ったメイルの中から、心に強く残った言葉を紹介したいと思います。
食べ吐きを完全に止めたい。それが全てだった私には、食べ吐きが止まれば何もかもうまくいくと思いこんでいました。
食べ吐きを止める目標が達成されたとき、今度は何を目標に‥何を目指して生きていけばいいのか分からなくなってしまいました。
それからは、不安と焦り…無力感に襲われ食べ吐きをしてどうにか自分を保っていました。
今は、食べ吐きをしてもまぁ仕方ないと思えるようになり、食べ吐きを否定しないことにしました。
これはすさまじい食べ吐きやその他さまざまな依存行動から何とか抜け出した人の、昔を振り返っての言葉です。その人は、材料を家に持ってきてもらっての内職、店に行っての短時間のパート、一日中のアルバイトを経て、その仕事が認められて正社員になり、さらには店長の仕事も任されるようになりました。食べ吐きは、生きづらさの正体を見たくないためにすり替えられているものにすぎないわけで、これは苦しさを生き延びる手段として利用すればいいのです。
「またいつでも来てね。話ならいくらでも聞くから。吐いてる途中でも、吐きながら聞くから。」
「分かった。背中さすりながら愚痴るね。」
これは、ともに苦しさをかかえ、お互いに思いやりながら、どこか気持ちが行き違っていた姉妹が、やっと心を開きあえるようになって、一方がその日にあったことを聞いてもらいに行った時の別れ際の会話です。すごい言葉ですねぇ。私はうれしさで笑いたくて、涙が出ました。
その姉妹のお姉さんの方は家族の前で泣くことがなかったのだけど、ここ1年くらいの間に涙を流すようになって、「泣くようにしてる」と言うそうです。妹さんは、そのお姉さんの涙が好きで、支え合ってる実感も日常生活の実感も湧くし、本当の「お姉ちゃん」が感じられるそうです。
山梨県の病院でアルコール依存と摂食障害を専門とし、家族会を主催しておられる大河原昌夫先生は、「家族の間には率直なコミュニケーションが必要だ」と言われます。やさしさというのは「これを言ったら悲しむだろう」と、言うのを控える、言わないでおくことでは決してありません。本当のことを伝えて、苦しい時は甘えさせてもらう、相手が苦しい時は甘えさせてあげる、それが本当の愛情でしょう。
ただし、これは甘えさせてもらっているのだと自覚して甘え、それを「自分は今とても苦しいので、少しの間だけ甘えさせて」とちゃんと言葉で伝えながら甘えることが必要なのでしょう。それを(相手は特別に苦しい状態にいるのではないのに)受け入れてもらえない関係なら、一緒にいても未来はないから、関係自体を諦め、他の人を探すほかないと思います。
たくさんのしあわせを受け取ること、
自分をまず大切にすること、
人の機嫌をとろうとしなくていいということ、
自分にはたくさんの選択肢があるということ・・・
それらすべてを自分に許して、しあわせに満ち足りていようと思います。
十数年の苦しみを生き延びて、やっと自分の人生を自分の足で歩くことを自分に許せるようになった人の言葉です。誰にとっても、これが最終的な目標だと思います。
福島お達者くらぶ連絡先
電話:070-6622-8026(お達者くらぶ専用)
メイル:f_otassya@yahoo.co.jp (新アドレス)
郵便:960-8505福島市本町2-10
福島学院大学駅前キャンパス
香山研究室
電話は呼び出し音が30秒鳴っても出ないときには留守電(伝言メモ)につながりますが、録音可能なメッセージは4件まで、全部で60秒以内です。留守電を聞いて、必要な場合にはこちらから電話しますが、この電話は着信専用なので、別番号の電話からになります。
連絡はなるべく手紙かメイルでいただけたらと思いますが、お達者くらぶやミーティングについての問い合わせなどは遠慮なく電話してください。不在のことも多いので、一回でつながらなくてもめげずに、何度もかけてください。
ただし、個々の問題についての相談には応じられません。それは、全く同じように見える人でも、例えば抱きとめてあげるのか、逆に突き放してただ見守ってあげるのがよいのか、人によっても、その人の時期によっても、全く違った対応が必要になることが多く、それは長い時間をかけて何度も何度もお話を聞かないと判断できず、電話では責任ある対応ができないからです。ご理解ください。
お達者くらぶや、毎月のミーティングについての案内は、様々な情報とともに、ホームページに出ています。
アドレス: http://www.geocities.jp/fotassya3/
すごくきれいなページですし、メッセージや過去の会報なども出ていますので、ぜひ開いてみてください。