〈〈〈〈〈福島お達者くらぶだより〉〉〉〉〉
第39号 2006年
4月 8日 発行
お達者くらぶだより第39号をお届けします。
この号には3人の人たちの手紙を載せさせてもらっています。もちろん、すべて載せてよいと言ってもらったものです。久しぶりに、私(編集担当の香山)は自分でほとんど書かなくてよかった号になりました。8ページ分の文章をかなり無理矢理ぎみにひねり出さなければならなかった時もありましたから、うれしいです。
実は、お達者くらぶは、ミーティングをこれからどのようにやっていくべきなのか、少し先をにらんで真剣に考えなければならない状況に到っていて、そのことはいずれこの会報にも書きたいと思っています。その状況をすでに感じ取っていたのぞみさんがとても大切なメッセージを寄せてくれた、それを最初に載せました。
2番目のフィオさんが寄せてくれた手紙は、この手紙に到る経過を知らないとわかりにくいかと感じ、数年前のフィオさんの手紙も再掲して2つの手紙を並べて載せさせてもらっています。
3番目は由美さんの手紙です。過食は止まっているという、心温まる手紙です。由美さんからの近況報告の手紙は昨年7月のお達者くらぶだよりにも載りました。その時にも過食は止まっていたのですが、経過はそんなに簡単ではありませんでした。そのあたりの状況について、ちょっとだけ解説を加えさせてもらうことにしました。
仲間たちへ のぞみより
お達者の皆様、元気でも元気じゃなくても、ただ在りのままに、生きれていますか?
私は今回、ぜひみんなに聞いてほしいことがあって、これを書くことにしました。ずっとお達者について思ってきたこと、仲間について、居場所について、安全な場所とは何か、について…今の私の正直な気持ちを書きたいと思います。
私自身は、お達者に行くようになって4〜5年ってところでしょうか。最初に同じ症状を持つ仲間に出会えたときは、何だかとても救われた思いがしました。“私だけじゃない”という感覚は、家族の理解を得ることができない孤独な私にとって、本当に心地良い感覚でした。仲間と自分を比べてしまうこともあったけれど、それも自分の生き方の模索には必要だろう、比べるということは駄目なことばかりじゃない…という思いがあって、ミーティングに参加してきました。そこは、私にとって居場所であり、安全な場所でした。
でも、いつからか、私はその場所に、どこか居心地の悪さを感じ始めていました。ミーティングの雰囲気を乱す発言をする人、自分が話せばさっさとタバコを吸いに席を立ち去る人、誰かが話している最中にコソコソ話をしている人…そこは、安全な場所ではないと感じました。そこは、分かち合う場所のはず。仲間の話に耳を傾け、共鳴し、感じ合う場所のはず。それなのに。聞いてもらえない、分かち合えない。
いつの日か、私はそう感じてしまいました。それに加えて私は、回復してきた時に、自分よりも後ろを生きる仲間に対して、語りかけたくなってしまったのです。それは違うんじゃない?こうしてみたら?って。けれど、それは許されないことだと感じていました。なぜならミーティングのルールは“言いっぱなし、聞きっぱなし”だからです。ルールを守らなければならないという思い、ねぇみんな、ちゃんと聴こうよ、分かち合おうよ、と言いたい欲求、それを言って自分が悪者になんかなりたくないという思い。私はそんないろんな思いの中で揺れてしまいました。そんな心の揺れと日々の忙しさも重なり、私はしばらくミーティングから離れました。
今思えば、その頃私の中には、泥まみれの汚れた思いがあったのかもしれないと思います。私は、そんなミーティングの仲間たちが、自分の仲間であることを、否定したくなったのかも知れません。私は、回復するんだ、もう仲間じゃないんだ、そう思いたかったのかも知れません。
だけど本当は、私は心の底から、居場所が欲しかった。安全で、何でも話せて、それがありのままに受け取られる場所が。仲間と触れ合いたい。そして分かち合いたい。
私はお達者が、安全な場所であって欲しい。暖かい場所であってほしい。どんな人間でも受け入れることができる、その場所にいる全員で、どんなに楽しい話も悲しい話も分かち合える、そんな場所であって欲しい。私は今それを、強く強く、願っているのです。
日本中探せば、いろんな摂食障害のグループがあり、いろんなミーティングがあります。私はフェスティバルに何度か参加してそれを知っています。いろんな考えがあっていいと思うし、いろんなやり方があっていいと思う。
必要とされる場所で必要な人が集まって、その参加した人が生きるのが楽になること。ミーティングとは、そのためにあるのではないでしょうか。
私は、今やっぱり、お達者くらぶが好きです。愛おしいです。仲間も、仲間の家族も、スタッフの方々も、みんながすごく、愛おしいです。繰り返すけれど、できることならばお達者くらぶが、安全な、みんなにとっての、私にとっての居場所であって欲しいです。
私は、つながりたい。
以上、正直に書きました。また、お達者で。 2006.1.9 p.m.10:58 アパートにて
生き抜く手段 フィオ(2002年3月)
食べ吐きの生活を続けてもう7年になる。吐くことに罪悪感を抱きながらもここまで続けてきてしまった。こんな生活が恥ずかしくてたまらなかった。誰にも知られたくなかった。けど、本当は心のどこかで、そんな自分でさえも受け入れてくれる人を探し続けていたのかもしれない。
私は今まで自分の幼い頃の記憶があいまいであった。断片的には憶えているものの、それらが連なった記憶として思い出す事はなかった。それはおそらく、無意識のうちに防衛規制がはたらいていたんだと思う。私は小学校の低学年の頃、学校帰りにおそらく大学生かそこらの年齢であろう若い男の人から性的いたずらを受けた。もちろんその行為がどういうことか分かるはずもない。しかし、幼い私でもずっと心にひっかかった経験であった。年齢を重ねるにつれ、その時のこと、その行為の意味が分かるようになり、“私はなんて事をされてしまったんだ”とか“私はなんて醜い人間なんだろう”、そんな感情ばかりがいつの間にか私の中に根付いていた。
私が過食嘔吐に走るようになったのは高校生の頃からだった。きっかけはごくごく単純で、数年付き合っていた恋人との別れからだった。彼に新しい恋人ができたためだったが“別れたのはきっと私が悪いから、私が醜いから”などと自分を責め続けるようになってしまった。その頃からであろうか、行動として攻撃の矢が自分に向くようになったのは。つまりは食べては吐きの生活になったのは。“痩せたい”という気持ちは今も変わらない。どんなに周りにそのままでいいと言われようともその思いだけは変わることはない。この数年の間に築き上げられた性格は変わるには容易じゃない。
私の評価基準は体重やテストの結果といった数値だけ、そして他者(世間)の評価もその通り、そう思ってきた。かたちあるものは必ず結果が返ってくる。自分に自信のない私にとって、言葉よりも何よりもそれが唯一の自分の価値をはかる手段となっていた。だから体重にしてもテストの結果にしても、少しの変化に敏感になって、満足のいかない結果が生じると、とことん自分を責めつづけ、努力(?)させ続けてきた。ある人はゆがんだ考えと言うかもしれないが、この考えが私には当たり前だった。結果、目に見えるものだけを信じるようになり、それ以外は信じない(信じられない)ようになっていた。抑圧された感情をそういったかたちあるものに向けることが私の支えだった。過食嘔吐にしても、そうすることでなんとかバランスを保っていたのかもしれない。
正直、今もまだ人を信じるということがどういうことなのか実感できないでいる。しかし、世の中には信じてもいい人間がいるということをなんとなく感じ始めている。信じないというのは自分を守るために貫き通してきたことなのかもしれない。本当は誰かに頼りたい、受け入れてもらいたい、“信じたい”と思っているのだけれど、あまりにもその思いが強すぎて相手を追いこんでしまう。共依存というかたちにいつの間にかなっている。それは決してそれぞれに幸せをもたらしてくれるものではなく、傷ついてばかり。自分への信頼を確かめるために人を試すような行動をしてばかりいた。そして離れていくと、“やっぱりな・・・”とまた自己嫌悪になり、さらに自己評価が下がり、人への信頼が消えていく。ずっと悪循環してばかりだった。恋愛にしても友人関係にしてもそう。人のやさしさがどういうものかわからなくて、はきちがえて、自分を傷つける恋愛ばかりしてきた。けど、やっぱり自分の一番根底にあるものは、親との関係だったかもしれない。
一見我が家はごく普通の家族。普通というのがどういうものなのか分からないけれど、むしろ周りからは“仲の良い家族”に見られていたことは確か。そう見られるように偽り続けてきたんだと思う。私は幼い頃から病気ばかりしてきた。ある病気は非常にめずらしく、原因や治療法も分からずいくつもの病院を転々としてきた。のちに特定疾患の認定を受け医療費を免除されるようになったが、それまでの医療費の負担は相当なものであったと思う。誰のせいでもないのに、母は私を丈夫に生まなかったことを責め、私はそんな母を見ているのが辛かった。この生活が十年近く続き、私は病気になった自分をにくらしく思っていた。
私の父はあまりにもお人良しで、優しすぎて、会社のことや他人事といったさまざまな面倒をいつも引きうけていた。責任を抱えてこんでいた。借金や転職、私の知るところでもかなりあった。母はそんな父を責め、責めきれない時はそのはけ口が私にきた。母が私に向けることで少しでも楽になるのならそれでいいと思った。両親が私や兄を学校に通わせるために一生懸命働いていた姿を知っていたので、私はこれ以上家に何か問題を持ちこみたくなかった。自分の病気のこともあったし。自分のことで彼らを傷つけてはいけないと思ってきた。自分さえ我慢すればいいといつも思ってきた。だから何でも親のいうことを聞いてきた。彼らを傷つけまいと、彼らが望むようにふるまってきた。そんなことばかりしていると、自分が望むことがただのわがままでしかないように思えてきてよけい我慢するようになっていた。けど、もしかしたら自分の方が自立することに目隠しをしてきたのかもしれないと最近考えるようになった。また共依存かな。良かれと思ってしてきたことが私の自立の道を阻み、親自身をも苦しめていたのかもしれない。
しかし最近私は変わり始めている。ようやく自立への道を歩み始めたのかもしれない。実際は意志が弱く、何度も引き戻されそうになり、その度に立ち止まり、身動きが取れなくなるが、私の前には手を伸ばせば救い出してくれる手がある。たとえつかめなくてももう元へは戻りたくない。いや、戻れない。過食嘔吐、自己評価の低さ、親との関係、いろいろなことが私を苦しめてきた。生きていても仕方ない、生きる価値が無い、その思いは恋人との別れをきっかけに私を過食嘔吐へ追い込み、さらに自己評価を下げ続けてきた。最近ようやく分かったこと、それらが決して独立したものではなく、全てがつながって私の周りを取り巻いていたということだ。過去の記憶が蘇るようになって、自分のことがわかるようになると、今までの自分のこと、親のことがよくよく分かるようになってくる。そして、改めてそれらと向き合うこととなる。これがまた本当に辛い。それを乗り越えない限り楽になれないと言われても、今の私にはどんな生活よりも今のこの振り返る生活が辛いかもしれない。今までの私なら、自分の辛さを口に出す事は出来なかった。甘えやわがままでしかないと思ってきたからだ。けど、今は少しずつ外へ出せるようになってきた。それができるのはその気持ちを受け止めてくれる人がいるから。私はこれからもその人を試し続けてしまうのだろうな。
数値やかたちあるものに価値を置いてきたせいか、すぐに結果を求めてしまう。早く変わりたい、楽になりたいと思っている。私はまだトンネルの出口が見えてきた段階。あせらず、ゆっくりと、これが私の課題ですかね。
親との距離 〜海を越えて〜 フィオ (2006年2月)
以前、私の文章を読んだことがある人がどれだけいるだろうか。今はこんなふうに言葉にしているけれども、私自身これまで、本当に乱れた、苦しい生活を送っていたことだけは確かだ。苦しさが募ったときにはいつも手紙やメイルを書いていた人がいるのだが、その人はよくよく知っていることだろう。
この過食嘔吐の生活も早いもので約13年。今ではこの行為を“やめる”ことなんて考えなくなった。それは苦しさを訴える手段ではなくなっているからだろう。昔はよく泣きながら吐いていたものだ。大量に買い物をしては、一気に食べ、罪悪感と自己嫌悪を抱きながら、そしてトイレへ向かう。毎日苦しくて苦しくて、死にたいとすら思うことも何度もあった。けれども、今やっと、少しばかりそんな生活をなつかしいなと振り返ることができる。もちろん、変わらず吐いている。けれど、なんだろう。あれほどトイレへ向かう足が重く、自己嫌悪でいっぱいだったのに、今ではさほど気にならない。昔と今で何が違うのかと言えば、自分で生きることを選択したことだろうか。親から(他人からも)の自立を目指す気持ちが生まれたことだろうか。そして、どんな私であれ、自分の存在を認めてくれる人を見つけたからだろうか。何はともあれ、私は今もまだ生きているのだ。
私の苦しさの根本にあるものが、自分の“家族”にあることも当然のように知っている。だから家にはいたくない。できるだけ両親と離れたかった。そして、そうすべきだと強く思っている。その一方で、距離をとってもなお、これまで培われた彼らからの依存は(自分の彼らへの依存は)なかなか抜けられるものではないこともよくよく分かっている。抜けようとすればするほど、彼らから責められ、自己嫌悪に陥り、心が乱される。苦しくなる。自分がどうすべきか迷わされる。私の家庭の場合、主に責め立てるのは母親であるが。
今でもときたま思うのだが、この人たち(両親)を私が変えてみせるという感覚。自分がそばにいなくてはという感覚。これが非常にやっかいで、時々ふっと思い出す。たいていの場合は心が乱されている時なのだが・・・。きっと両親にしてみれば、あれだけ優等生で、いい子に育てたのに、どうしてどんどんこの子は離れていくの?と裏切られた気持ちでいるだろう。しかし、その根底にあるものを彼らは知らない。どれほど私が親の顔色をうかがい自分を抑えていたかなんて、いい子であり続ける努力をしてきたかなんて、彼らは想像もしないであろう。本当はこの怒りの気持ちを投げつけ、思いをぶつけられたらどんなに楽だっただろうと思う。もっと早い段階でそうすることができていたのなら、私自身、もっと成熟した大人になっていたかもしれない。しかし、今もそれをするかどうかでさえ、私は拒むであろう。なぜなら、これ以上両親と話をしたくないのだ。というか、これまでを振り返り考えたくないのだ。話をすれば、彼らは自分たちの育て方を悔やみ、私に謝るであろう。それが私を傷つける。だから何もしたくない。ただただ離れているだけでいい。
実は、私は今、アメリカに住んでいる。もともとアメリカ留学の夢はもっていたけれども、その夢を叶えたかのような、そんなかっこいいものではない。親から逃げ出したいのだ。これまで私は高校を卒業して、大学から家を出て一人暮らしを始めた。卒業後は4年間東京で暮らした。東京で自分を試したかったこともあるが、両親から離れたかったことも大きな理由だった。そんな決断をすれば、必ず母親は私を責め立てる。しかし、私は母の願いを断ち切り続けている。彼らのもとへ戻ることは自分を捨てることだと思っている。どこにいても親からの束縛は私を追いつめてきた。しかし、一方で、逃げ続けながらも、私自身、今もこれからも、両親を見限ることはできないだろう。不可能であることなのだけれど、彼らの理解を最も求めていることは私の心が悟っている。そしてそれを自分が強く求めてしまうならば、私の心はいつか必ず壊れてしまうだろうということも分かっている。だからこれからも離れるしかないのだ。逃げながらも彼らの理解を求めることは矛盾しているかもしれない。けれど、いろいろな矛盾を抱えながらも、私は逃げることを選択している。それが結果なのだ。
親との距離がどれくらい必要なのか正直まだ分からない。アメリカではさまざまなことを体験している。親との関係性を抜きにしても、正直辛いことも多い。けれど、海を越えたこの距離が、今の私には適当だと思えるほど、心穏やかに過ごしていることも事実なのだ。
これで私はまた生きられる。
由美さんからの手紙
最初に、由美さんがこの手紙を書くに到った経過を少しだけ編集者の方から書かせていただきます。由美さんは折にふれて手紙をくれているのですが、その中で6月にもらった手紙を昨年7月発行のお達者くらぶだよりに載せさせてもらいました。ずっと何もできなかった自分が、このところ全く過食していないし、ずっとアルバイト(内職)を頑張っている、という手紙でした。しかし、その手紙には必死になってその状態を保っている、仕事も強迫的に打ち込んでいることが表れていて、それはいつ崩れるかわからない危うさを背後に秘めていました。実際に夏を過ぎたところで一気に崩れ、また自分を責め続けて何もできなくなる生活に戻ってしまいました。本当は、そこまで何ヶ月も続けられたことだけでもすごいことだとほめてあげたいのですが、自分ではまた「やっぱり私は全然ダメな人間だ」としか思えなくなったのです。
それが、今回の手紙を読んでもらうとわかるけれど、またちゃんと過食しないだけでなく仕事も再開した生活を始めている、それが6月の手紙に比べればずっと余裕が感じられる状態で続いています。自分のことを見つめて、自分に今できることは何なのかを考え、無理をしないですむ、強迫的に自分を追いこんでいく必要がウンと少なくなっているのが感じられるのです。
この状態もまた崩れる時があるかもしれません。人間、生きていれば必ず周りの環境状況にも自分の気分にも波がありますから、またつらい状況に陥ることは避けられないのです。けれど、昨年の春−夏に比べてこの手紙の今の由美さんにはすごい成長があります。だから、たとえ過食が戻っても、それは昔に戻ったのと全く違います。この成長は必ず進んでいきますから、そのつらい時を過食で乗り切ればいいのです。そうしたらまた新しい自分が感じられる時が戻っています。
私はよく「自分をこれでよしと思えない性格になった人が、愛してくれる人とここにいてよいという場所が得られれば、3歳児なら3ヶ月で変われるけど、10才の子供なら変わるのに1−2年はかかるだろう、20才になったら3−5年はかかるだろうし、30才なら10年かかるかもしれない、40才になってからならそれから先の一生をかけて変わらなければならないだろう、それでも、人間は変われるし、最後には変わって幸せだったと思いながら死ねるようになる。」と言ってきました。その40歳を過ぎた(自分で書いておられるから年齢を出してもいいでしょうね)由美さんが、このように変わってこられているのは、私に大きな勇気を与えてくれます。由美さん、まだまだ揺れるだろうけれど、あわてず焦らず、ゆっくり進んでいってくださいね。この手紙を読む皆さんも、自分だって生き延びてさえいれば変われるのだ、幸せに生きられるようにもなるのだと、少しでも勇気を得てもらえればと思っています。
なお、手紙の文章はできるだけ忠実に再現しています。文字の間のスペースもできるかぎり再現してみました。
だんだん暖かくなってきて もうすぐ春かなぁと思うこの頃です。お久しぶりです。お元気でいらっしゃいますか?相変わらずお忙しいのでしょうね。 私は この頃 だいぶ元気になって 去年から始めたアルバイトも なんとか続いて 2ヶ月になります。ドジばかりで すぐクビになると思っていたのですが 2ヶ月も経って ミラクルです。冬の間は雪がひどくて 片道30分かけて歩いて通っていましたが やっと道路も 自転車に乗っても大丈夫な位になりました。でも 運動のために 歩いています。 アルバイトといっても月に10日位なので その位は 歩いた方が体に良いかなと思います。
今年になってから 1度も過食もしてないし 吐いてもいません。1日3食キチンと食べています。 体は 以前の倍になりました。思いっきり中年体型です。 ヤセたいですよ、 正直なところは。 でも もう 吐いたりはしないと思います。 アルバイトで疲れてしまうから 吐く気力も ないです。 以前は 食べ物が体に入ると すごい違和感と恐怖感で 吐いていたけれど この頃は そういうの なくなりました。 朝は お腹すくから(昔は空腹感もなかったのに)食べます。 パン2個位。 アルバイト先で パンたくさんもらうので それを冷凍しておいて 食べる時 焼いてます。 昼はテキトー。 でも アルバイトの日はまかないの食事が出るので それを食べてます。 夜はごはん。 アルバイトの日は 夜は パン1個位。それとか カップラーメンとか。 まかないは 2時とか3時に食べるので 夜はお腹すかないです。 おやつは ほとんどたべないですね。
不思議なんですけど 前は1日中 食べずにいられなかったのに 今は 3食以外 食べたいなぁという気分に なりません。 あれほど甘い物 好きだったのに 今は お菓子は ほとんど買わないです。 1日 キャンデー 2袋 毎日 食べていたのに 今年は キャンデーは 1粒も食べてないです。 去年まで メチャクチャな 食生活していたけど アルバイト始めてから 変わった感じです。 自分でも ある程度 考えたりも しましたけど。 このまま やせた体をキープするために メチャクチャな生活するか それとも 太るの我慢して 少しはまともな生活するか。 いろいろ考えて 今年からは 思いきって 食べ吐きやめてみようと 思いました。 あと とにかく 3食 食べてみようかなと。 食べて吐かなかったら 体 どうなってしまうのかなと 不安でした。 結果は…。 デブでしたけどね。 ははは。
でも なんだか いいやって 感じ。 とりあえず Mサイズの服着てるし。もう中年(42才)だし アルバイト以外の日は ゴロゴロして運動もしてないし まさに いい加減にやってるから 太って当たり前かな。 あまりに長い間 がんばって やせてたから なんだか 燃えつきた様な感じ。 20年以上も がんばって やせてて 今考えると よくやってたもんだなぁって 感心します。 でも あの時は やせていないと生きてる心地が しなかったんです。 1g 増えるだけで恐怖だもの。
入院中は 点滴のカロリーでさえ もめていた私が 今じゃ カップラーメン食べてます。 どこで 何が どう変わったのか 自分でも さっぱりわからないんだけど 気がついたら お腹に食べ物 入っても 変な気分しないし 吐かなくちゃ太るとも 思わなくなったし。 ずっとパキシルとリスパダール飲んでいたのが 効いてきたのかな。 寝る作戦も良かったのかな と 思います。 初めは とにかく 食べたら 薬(ワイパックス)飲んで 布団にもぐって 寝ました。 起きる頃には もう消化してしまって 吐けないなって 感じ。 アルバイトの日は 朝 食べないと 職場で倒れて クビになったら たいへんだと思って 食べました。バイトで まかないの食事 出されたら 食べないと おかしく 思われると思って 食べて 忙しいから 吐く時間もないし。 どんどん太っていくんで 困ったけど ある程度 太っちゃったら もうどうでも よくなっちゃいました。 また 食べ吐きしたら 元みたいにヤセられるのかな。 でも せっかく 今年 食べ吐きしてないのに やったら 悔しいし。 ヤセたら 具合悪いと思われて バイト クビになったら 困るし。 それに もう ヤセる努力する パワー 出ないです。 アルバイトに超!パワー入れているので それ以外に 入れるパワーないです。 昔の私だったら 仕事もヤセる努力も 両方に パワー 入れられたけど もう 今は無理って カンジです。根性 無くなりましたね。
太ったのは 悲しいけど 食べ吐きしなくなったら 楽にもなりました。 経済的な事とか 時間のヤリくりとか。 過食嘔吐していると 経済的にも たいへんだし 1日の時間が 食べ吐きに とられてしまうので 忙しいし。過食嘔吐やめたら お金もかからなくなったし 眠りたいだけ眠る時間あるし。今は とにかく 眠ってる時が 最高に 幸せですね。 家に こもって 眠っている時は ヤセてるの 太ってるの どうでも よくなっているし。
18才から おかしくなって 気がついたら もう 42才。 何ヤってたのかなぁ。 でも ヤセてた時は それで 満足していたから 悔やんでもしかたないやと 思っています。 そういう 運命だったのでしょう。 今でも どこかで摂食障害で 苦しんでいる人が たくさんいるんだろうな。 良くならなくて 落ち込んでいる人が たくさんいるんだろうなぁ。 治る人もいるし 治らない人も いるんでしょうね。 ずっとヤセていたり 太ったのがヤセたりすると 太るのは やっぱり 怖いものね。私は 食行動は 良くなったけど やっぱり 気持ち的には まだヤセたい事に こだわっているところが あります。 でも 食行動が良くなったのは すごい進歩かな。でも 良くなったばかりだから 油断はしないように しなくては。 油断すると 逆戻りですから。 食行動は 周りの人が 色々 言っても よくならないような 気がします。 私も長―いこと おこられたり 説得されたりしたけど 全然良くならなかったです。 結局 自分が どうにか 変わらない事にはダメかもです。でも 変わりたくても 変われない時は変われないです。自然と変われる気分になるまで 気長に待つしかないのかなぁ。 私は たまたま 今頃になって 変われそうな 気分になったから 少し変わったのかなぁ。 だいぶ時間がかかってしまいました。 20年!
今 一番 嫌なのは、会う人ごとに 太ったとか ふっくらして良かったと言われる事です。自分で太ったことわかってるのに 他人から言われると すごく傷つきます。そうすると またヤセてやる!と 思ってしまいます。私が母に 太った 太ったと グチをこぼすと 母は まだまだ 細いよとか、皆は 健康になって良かったねという意味で言ってるんだよとか言います。 母は 私が太ったからよろこんで、2度と ヤセさせないように 必死って感じ。 私が太って嫌なのに よろこんでる母は どうかなぁと思います。 こういう風に考えるという事は 精神的には まだまだ 摂食障害を ひきずっているのかな。 私は いつの日か 完全に 摂食障害から卒業できるのかな。死ぬまで できないのかな。 色々考えると きりがないので とにかく 1日 普通の食生活できれば 今のところはいいかなと思うことにしています。
とりあえず 近況報告しようかなと 思って ペンを取りました。 色々 悩んだりしながらも 元気でやってます。 1月は過食嘔吐しなかったから〇 2月も何とか〇で終わりそうです。 3月も〇だといいな。
お達者の皆は 元気かな。 アルバイトは 仕事の日がまちまちなので 土曜日 仕事だとお達者くらぶに行けないです。それとも もう デブになった私は 参加資格ないのかな。 どうなんでしょう。(編集者注:全然そんなことはありません。誰でもOKです。)
また 何か お知らせあったら お便りします。お体に 気をつけてください。
福島お達者くらぶの連絡先
福島お達者くらぶは会長や代表者をおいていません。明確な事務局もおいておらず、スタッフがそれぞれの状況に応じて分担してミーティングやその他の活動の運営を行っています。(その運営の形は自助グループ的だとも言えそうです。)しかし、連絡先だけはきちんと明示しておかなければ困ります。現在、連絡先は次のとおり香山の所にしています。
960-1295福島市光が丘1番地 福島県立医科大学医学部 生理学第二講座 香山雪彦
電話(直通):024-547-1134 FAX:024-548-2571 メイル:y-kayama@fmu.ac.jp
連絡はなるべく手紙かメイルでいただけたらと思いますが、お達者くらぶやミーティングについての問い合わせなどは遠慮なく電話していただいてけっこうです。初めてで様子がわからない方もどうぞ電話してください。香山は会議や講義で不在になっていることもあるので、一回でつながらなくてもめげずに何度もかけてください。夕方5時以後も、9時くらいまでいると思います。(もちろん不在のこともありますが。)
ただし、個々の問題についての相談には応じられません。それは、全く同じように見える人でも、例えば抱き留めてあげるのか、逆に突き放してあげる方がよいのかなど、人によっても、その人の時期によっても、全く違った対応が必要になることが多く、それは長い時間をかけて何度も何度もお話を聞かないと判断できないことで、電話では責任ある対応ができないからです。お達者くらぶは相談の場所ではないことは、ミーティングについても同じです。ご理解下さい。
お達者くらぶやミーティングについての案内はホームページに出ています。アドレスはGoogleやヤフーで「福島お達者くらぶ」を検索するのが便利です。メッセージや寄せ書きなども出ていますので、ぜひ見てみてください。